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すみかの山について
江戸時代の紀行家菅江真澄の「すみかの山」に出てくる通過地や滞在地をだどります。寛政8年(1796)の旅です。
青森から、三内、入内、浪岡、水木などを経て黒石に行きます。
文中の日付は旧暦です。なお、日記が始まる寛政8年4月13日は新暦では5月19日にあたります。日記が終わる5月20日は6月25日にあたります。
以下、東洋文庫版菅江真澄遊覧記3「すみかの山」からの引用です。
寛政8年4月13日
青森に滞在しています。夕方近くに青森を出て、大浜(油川)に行き、十二所権現(伝馬熊野宮)に詣り、神主沢田の家に宿泊します。
4月14日
朝早く神主沢田の家を出て三内の桜をみにいきます。新田、石神を経て三内につき、少し先の小三内にも行きます。
「大三内、小三内の花は、ふつう世間にあるものと似ていない。」「花に花の寄生(やどりぎ)があるようで、またとないものである。たいそうちいさいはながびっしりと生いたって、この小桜にも小枝がまりのようにさしこんでいて、枝ぶりはみな同じであった。」と書いています。
「この村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の古い瓦、あるいはかめのこわれたような形をしたもの」「人の頭、仮面などのかたちをした出土品もあり」と三内から出土する土器について書いています。(三内丸山縄文遺跡)
浪館、安田、生出の観音(細越神社)、細越、高田、機織の宮、祖神(そうぜん)堂(高田熊野宮)、館、中野に宿泊します。
4月15日
昨日みた機織の社の花をもう一度みてから入内に行きます。観世音堂(小金山神社)に詣でます。ここがこがね山の神社だと推測していたがあやまりだったと書いています。
田山、荒川、八役(やちやく)、妙見の森と花のあるところをたどり、横内に宿泊します。
4月16日
朝早く出立します。常福院(常福院)、幸畑、駒籠(駒込)に入り、神主阿保の家につきます。
4月17日
阿保神主の家に滞在しています。小河沢(こがさわ)に入り、玉清水の村の跡、横滝、横滝の社を見ます。
4月18日
阿保神主の家に滞在しています。雨模様なので主人と語って過ごします。
4月19日
阿保神主の家に滞在しています。駒込川上流の大滝を目指します。木こりを案内にたのんで、幸畑、小峠、大峠、大滝と巡ります。大滝までは道が途絶えているので谷を隔ててながめます。「あやしいほど美しい山の景色」と書いています。
4月20日
阿保神主の家を昼から出立します。砥山(戸山)、斧掛明神(斧懸神社)、山の神の社、砥崎、桑原、鯨森の稲荷(桑原稲荷神社)、うしろやち、諏訪の沢、建南方富神の社(諏訪沢諏訪神社)、槻木館、宮田、イチョウ(宮田のイチョウ)、野内に行き、柿崎の家に宿泊します。翌朝青森に戻ります。
5月1日
青森に滞在しています。茶屋町、松森、松尾の神(あらはばき)(松尾神社)、妙見、以賀志乃(いがしの)社の跡、太郎次郎が館、松森、古館、駒籠とあるき、宮崎の阿保安澄の家に宿泊します。
5月2日
阿保宅に滞在しています。「雨でしょうから、きょうばかりは」と主人にとめられて、語り合います。庭に耕田山(八甲田山)から根ごと掘ってきた赤白黃のつつじが咲いています。
5月3日
宮崎を出立します。桑畑、長浜、大矢沢、四ツ石、石神(明石神社)、横内に来ます。荒川の橋が落ちて渡れないので合子沢(こうしざわ)、野木、金浜、雄別内(大別内)にまわります。雄別内でも荒川を渡ることができず、金浜に戻って宿泊します。
5月4日
金浜を出立して、上野(おの)、上牛館を経て赤川を渡り、下牛館、妙見、妙見堂(大星神社)、荒川に行き、荒川の村に宿泊します。
5月5日
朝早く荒川を出立し、薬草採取のために田山の観音菩薩の森に向かいます。入内の村長の家を家を通り過ぎると、主人が外にでて「きょうはどこへ行かれますか。さあ、どうぞ」と招き入れられ「今夜はここにお泊まりなさい」ととどめられます。
5月6日
入内を出立し、王余魚沢を通って浪岡に入ります。平野某を訪ねて宿泊します。「きのうはここで競馬があって、くろ、あか、それがわが方の馬だと、村々の若者たちが荒馬に荷鞍をおき、あるいは鞍なしのはだか馬にのって、命しらずにとびまわりましたが、なかなかの見ものでした」と聞きます。
5月9日
風邪気味でしたが今日は気分がよいので、玉沢というところで石をひろおうと主人に誘われて出かけます。大釈迦、柳窪、檜木沢、滝の沢、宮内、蓑が沢と行き、水無(みずなし)とたどります。そこで草を刈っていた男が、「木々がおおいふさがってここ十年ほどは木こりさえ行きかう道もない」と言うので引き返します。
5月12日
小峠というところに行こうと誘われて浪岡を出発します。中野、西光庵、金光坊の塚(金光上人のお墓)、本郷、長井坂の不動(長谷澤神社)、小峠、薦槌(こもつち)山、座頭石盲巫女(いたこ)石、ほいほい石、相沢、源常林(源常林のイチョウ)、中野を経て戻ります。
黒石市上十川の小字に小峠があります。長井坂の不動と書いているのは長谷澤神社のお不動様のことでしょう。小峠からは山路を北上して浪岡に帰っています。細野に目倉石があります。これが座頭石盲巫女石だと思われます。
5月14日
昼ころ浪岡を出て水木に行きます。
5月17日
水木の毛内氏の家を出て、徳下、東光寺村、追子野木、田舎館、高木、尾上、荒谷町、荒田、小和森、大光村の古い城柵(大光寺城跡)、元町、柏木町、八幡の宮(柏木八幡宮)、高畑、枝村、糠塚、薬師堂村、下野町、乳井、多門天堂(乳井神社)、やはたさき(八幡館)、鯖石、宿川原、つるぎがはな、大鰐、大日如来(大円寺)、蔵館、大鰐の湯の川原に着き、湯守の家に宿泊します。
「この川原のいでゆのほとりに、苗のたいそう高く生いたつ稲田があった。これをおはつ田といって、ほかの苗代より早く種をまき、さきに植えて、むろのはや早稲におとらず六月の十五日ごろには刈りおさめ、その米を藩主に奉るのだと」と聞きます。
5月18日
雨が降り続いていますが、わずかな晴れ間に袴腰山のこちらからわけいり、八幡の社、虹貝(にじがい)、虹貝新田、袖が沢、足菜の沢、ひき石を経て上新田で雨宿りをしてて出ていくと、雨がますます降ってくるので、早瀬野というところで宿を借ります。
外では、男女が雨がふりつづくなかをいとわず、歌いながら田植えをしています。
5月19日
雨があがったので出かけようとしていると、主人が「そのいでたちではおぼつかない。みなこれを着て身支度しています」と言って、ののこきぬ(麻織の刺し子にした着物)、ののもっぺ(麻の山袴)を貸してくれます。
案内人をたって出立します。窟(いわや)の沢というところをわけいり、宇佐川を渡ります。夏越(なつごえ)というところから眺望すると、むかし金を掘ったという「ひかりまぶ」という山がみえます。金臼というものが、ところどころの川瀬、山道に捨てころがしてあります。
長床石というところを上ると、大石の頂きがみえます。高さ十丈(三十メートルほど)もある大きな石です。石のもとにささやかな堂があって薬師仏をまつっています。
またはるばるたどって申の刻(午後4時ころ)に早瀬野に戻ります。さらに喜助、腹切石をすぎ、ひき石のある草むらからのぼり。坂をおりて六杷川を渡り、白川を渡り、鯖石に着き、商人の家に宿を借ります。
5月20日
晴れたので朝早く出立します。数子(かずのこ)塚をみます。田面の道をたどって乳井村につきます。ここからの岩木山のながめは「駿河の国吉原のあたりから富士山を眺望するのとまったく同じである」と称賛しています。
多門天堂(乳井神社)、乳井という泉、下の町、薬師堂村、おたぎ(愛宕)神社、高畑、沖館、別府太郎左衛門の館跡(沖館観音堂)、新館、松江(町居)、平田森、荒田村、尾上を経て日が暮れてから黒石につきます。
津軽の奥ーすみかの山ー外浜奇勝(一)(二)
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