岩木山の大人(おおひと)

大人伝説を紹介します。

昔、岩木山のふもとの鬼沢に弥十郎という人が住んでいました。弥十郎は山に薪(たきぎ)を採りに行くのが日課でしたが、毎日仕事をそっちのけにして、一日中、岩木山をながめていました。

ある日のこと、いつものように切り株に腰を下ろして岩木山をながめていると、大男があらわれて、弥十郎に「俺と相撲をとれ」といいました。弥十郎はこれが岩木山の大人(おおひと)だと思って、大男の申し入れに応じました。

二人は何度も相撲をとりましたが、相手は雲をつくような大男で、弥十郎は一度も勝つことができませんでした。夢中で相撲をとっているうちに、いつのまにか日が暮れて、大男はいなくなりました。

その夜、弥十郎が家にいると、大きな掛け声とともに、家の前に何かを投げ入れる音がしました。おどろいて飛び出してみると、家の前には薪が山のように積まれていました。

それからも大人は、たびたび弥十郎の前に現れて、弥十郎の仕事を手伝ってくれました。弥十郎の田は、水の便の悪いところだったので、大人は、大きな鍬(くわ)振るって岩を削って堰を作ってくれました。

この堰は、水を低いところから高いところに引くことができるもので、村の人は「大人の逆水(おおひとのさかみず)」と呼びました。

弥十郎は大人のことを秘密にしていたのですが、ある日弥十郎の女房が弥十郎の行動を怪しんで、あとをつけて大人の姿をみてしまいました。すると大人は、「お前の女房に見られたので神様にとがめられてしまう。もうここにこられない」と言って二度と現れなかったとのことです。

江戸時代の紀行家菅江真澄も大人のことを書いています。

岩木山百沢寺にあった下居の宮(現岩木山神社)に参拝したときに「鬼のへそ」の話しを聞いています。

津軽の奥(四)より
「いまでも大人(おおひと)というものが岩木山の北赤倉の岩屋に住んでいて、ときにみかける人がいるという。また、あやしい物語であるが、村長太田藤左衛門の家に、鬼のへそというものを、遠い先祖からもち伝えており、その家には上窓がなく、また節分には、豆まきをして鬼を追うこともなく(以下略)」寛政八年(1796)三月一日の日記より引用

菅江真澄が十腰内から岩木山の赤倉岳に登ろうとして、天候が悪くて断念したことがありました。菅江真澄は先に進みたかったのですが現地の案内人が大人を恐れて途中で案内を断ったのです。

外浜奇勝(三)より
「ここ(岩木山の赤倉岳)には鬼神もかくれすんでいて、時には怪しいものが峰をのぼり、ふもとにくだるという。その身の丈は相撲の関取よりも高く、やせくろずんだその姿をみた人もあるが、それを一目見ても、恐怖のあまり病いのおこる者がある。また、それとなれしたしんで、兄弟のようになかよくなり、酒肴などを与えると、さっと飲み食いして、その返礼として山の大木を根こぎにしたり、あるいは級(しな)の木の皮をはぎ、馬二、三匹につむほどの量をかかえてもってきてくれた(中略)。その妖怪をおおひと、やまのひと、あるいは山の翁(やまのおつこ)とよんで、山をわけて道案内をするこのたくましい男たちも、おそれわなないて、すすんで行こうともせず、このような奇怪なことばかり語りあっていた。」寛政十年(1798)六月二日の日記より引用

岩木山の大人伝説は、他にも多くのバリエーションがあります。

岩木山のふもとの鍛冶屋に鉄棒の注文がありました。長さ一間(1.8メートル)重さ六十貫(225キログラム)という大型です。赤倉のお堂に届けると、大人があらわれてお礼に魚を焼いてくれました。

山歩きが好きな侍が赤倉山で大人と出会ったことがきっかけで、大人は侍の屋敷に訪ねてくるようになりました。侍は酒肴でもてなし、大人はマキや山菜、毛皮などをお土産に持ってきました。こうして仲良くしていたのですが、妻が怪しんで覗きにきたことで大人は二度とこなくなってしまいました。

他にもたくさんあります。

岩木山の大人は岩木山のどこにでも現れるのでなく、赤倉にだけ現れます。弘前から見ると岩木山の山頂は、三つの峰に分かれていて、中央が岩木山、左が鳥海山、右が巌鬼山と呼ばれています。赤倉信仰の赤倉山は巌鬼山のことだといわれています。

岩木山のふもと、大森勝山に赤倉霊場があります。

参考文献
菅江真澄遊覧記 東洋文庫
ふるさとの伝説 川合勇太郎著


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