青函連絡船の歴史

はじめに

私は青函連絡船が運行していたときに青森市に住んでいたことがあるので、青函連絡船には特別の思い入れがあります。深夜や早朝にも響き渡る汽笛の音、広い桟橋待合室、出発の時のドラの音。大型船舶による定期航路ならではの情緒のある風景でした。

青函航路の開設

本州と北海道の間は、江戸時代にも航路が開かれていました。しかし本州と北海道の本格的な往来が盛んになるのは明治政府が北海道開拓使を設置して本格的に北海道開拓に乗り出してからのことです。

北海道開拓使は明治2年(1869年)に直営で青森函館間に汽船を就航させました。これが青函航路の始まりです。

開拓使の運行する航路は明治6年に定期運航されるようになり、青森・函館で月に3往復、安渡(むつ市大湊)・函館で同様に月に3往復の運行をしていました。函館から安渡への出港は6の付く日で、函館から青森への出港は2の付く日でした。

このころの船は汽船とはいうものの200トン程度の木造船だったので、天候がくずれると延々と欠航が続き旅客は難儀したそうです。その後明治7年9月には、安渡(むつ市)への便は廃止され、航路は青森・函館に一本化されました。

同じ時期に民間業者で月4往復の青森・函館間の定期運行をしている人がいました。山口県出身の小田藤吉という人でした。明治6年から営業していましたが、冬期間6ヶ月の休業するなど運航が不安定であったため、人気がなかったようです。

開拓使が運営する航路は、明治12年に三菱汽船会社に引き継がれました。ところが、政府と結びついて海運を独占する三菱汽船会社には反発もあり、渋沢栄一などの後ろ盾で三井系の共同運輸会社が創設され、三菱汽船会社と各地で競合しました。

青函航路においても、三菱と共同はともに函館と青森に事務所をおき、旅客獲得の競争をしました。運賃の割引はもちろん、乗客に反物を配ったり、無料で上船させるサービスまで導入したそうです。この両社の競争は青函航路だけのことではなく、日本全体で行われたものです。あまりの競争に共倒れ寸前となったところで政府が仲介して、明治18年9月に両者が合併して日本郵船株式会社が設立され、青函航路も日本郵船に引き継がれました。

鉄道の開通

日本鉄道会社は明治24年に上野・青森間を開通させ、その後北海道でも鉄道が敷設され始めたことから、間をつなぐ船便の輸送が間に合わず、青森駅は旅客や貨物がごった返し大混雑をきたしてしまいました。

また、青森駅と日本郵船の桟橋(浜町)の間は約2kmの距離があり、雨や雪の日には貨物や乗客の移動は大変でした。

青森の貨客乗り換えの混雑は、青森駅前の商業やサービス業が活況を帯びるようになる効用はありましたが、物資のスムーズな輸送という観点からは放置できるものでなく、日本鉄道会社は、明治35年(1902年)に青函航路での自社船運行と、新接岸設備の建設を計画し、明治38年にイギリスに2隻の大型汽船を発注しました。

日本鉄道会社は翌39年に国有化されましたが、計画を引き継いだ日本国有鉄道は、イギリスで建造された最新鋭タービンエンジン付汽船(1480トン・旅客定員462人)を明治41年に就航させました。比羅夫丸と田村丸です。

日本郵船は700〜900トンの6時間航海、国鉄は1480トンで4時間、しかも待ち合わせ時間が少なく、運賃も若干安かったため、国鉄の人気が高まりました。日本郵船側でも対抗して運賃を下げるなどしたため、かつての三菱・共同の競争が再現される状況となり、逓信省が日本郵船と協議した結果、明治43年3月日本郵船は青函航路から撤退することになりました。

国鉄の青函連絡船の運航により、輸送体制は強化されましたが、桟橋の問題はしばらく続きました。大型船が直接接岸できる桟橋がなかったため、沖合いに停泊する連絡船にハシケで中継していたのです。これは貨物の輸送に支障が大きかっただけでなく、旅客にとっても、乗り移る時に転落して波にのまれる人がでるなど大変な難儀でした。函館港では、明治34年から連絡船が直接桟橋に接岸できるようになりましたが、青森港では遅れて、大正12年にようやく直接の接岸が可能になりました。

貨車の積載

直接接岸できる桟橋を完成させてまもなく、国鉄は貨車を直接船に積載して函館に運ぶ方式を実現しました。大正14年(1925年)8月のことです。この年に就航した貨客船翔鵬丸は貨車甲板を設け、甲板にレールを敷くことで、12両の車両を搭載することができました。船と陸との間にはレールがついた可動橋を設置しました。

そして、その後も国鉄は船の構造や可動橋の改良を重ねて、本州・北海道があたかも線路でつながれているかのような輸送体制を確立し、北海道の発展に大きな貢献をしました。

アメリカ軍の攻撃

昭和20年7月14日、15日連続してアメリカ軍の攻撃が青函連絡船に対し集中的に行われ、青函連絡船は12隻中、沈没10隻、損傷2隻などの壊滅的打撃を受け、349名が殉職する大惨事になりました。

この攻撃が行われた時、日本軍はすでに迎撃する力がなく、連絡船は装備していた25ミリ機銃で自力で応戦するしかなく、次々と撃沈されてしまいました。

洞爺丸遭難

昭和29年9月26日、台風の強風で洞爺丸はじめ5隻の連絡船が沈没転覆し、乗客乗員1430名が死亡する日本最大の海難事故が発生しました。

洞爺丸は14時40分函館発の予定でしたが、天候の悪化などで遅れて18時39分に函館を出港しました。出港直後に風が急に強まり、危険を感じた船長は函館港外に停泊してシケの静まるのを待つことにしましたが、このときの風は予想以上のものでした。浸水し船が傾くなかで、七重浜への座礁を目指して懸命の操船をしましたが、22時45分SOSを発信して直後に沈没してしまいました。

青函連絡船の廃止

洞爺丸などの遭難によって、以前からあった青函トンネルの建設計画が加速されました。そして、困難な工事を乗り越えて完成したトンネルの開通によって、昭和63年3月13日をもって青函連絡船は廃止されました。

青函連絡船が営業を終了したとき、国鉄が保有していた船舶は多くが売却され外国などに行ってしまいました。なかには、保存されることになり係留されて一般公開されている船があります。

羊蹄丸は、東京の船の科学館に展示されています。羊蹄丸は函館からの最終便として航海しました。船内には昭和30年代を再現した青函ワールドがあり、等身大の人形で再現しています。

青森発最終便は八甲田丸でした。現在は「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」としてJR青森駅前の岸壁に係留されています。

同じように函館駅には、摩周丸が残されています。

おわりに

青函連絡船の廃止は青函トンネルの開通が直接の原因ですが、その前から、飛行機に圧迫されて乗客が減少してきたことや、鉄道に代わってトラックによる輸送が主体になってきたことからフェリーに貨物が移動しつつありました。青函連絡船は交通輸送体系の変化の中で歴史的役割を終えつつあったのです。

航路の廃止が近づくころには、テープをなげて別れを惜しむ光景は見られなくなり、ドラの音も録音テープに変わり、桟橋待合室も閑散としている日が多くなっていました。

そのころ、定期航路だけでなく、北海道の観光地を周遊する運航や、洋上から初日の出をみる旅なども試みられましたが、それで生き延びることができるとは思えませんでした。歴史的役割を終えたものが退場していくのはやむを得ないことです。


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