岩木山の安寿姫

安寿と厨子王

弘前市の青銀記念館向かいの弘前市民中央広場という公園に「安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)と母」の像があります。

また、長勝寺には、安寿と厨子王の木像があるそうですが、それは寛永年間(1624年から43年)に津軽二代藩主信枚が、岩木山三所大権現の山門に納めたものだといわれています。

安寿と厨子王の物語は、中世の遊芸の徒である「説教師」によって語られた、「説教節」の一つといわれています。地方によって若干異なりますが、多くは、人買いの手に落ちた安寿と厨子王の姉弟とその母の苦難の物語です。大正4年に森鴎外が発表した小説「山椒太夫」はこの「説教節」に基づいて書かれたといわれています。

江戸時代の紀行家菅江真澄が、天明5年(1785)に著した「けふのせば布」に「岩木山に安寿姫をまつり、この岳(岩手山)には津志王丸をまつっている」という一節があります。

同じ天明年間に書かれた古川古松軒の「東遊雑記」には、「安寿姫と津志王丸の霊をこの山(岩木山)に祭って岩城権現としている」という記述があります。

以上のように、天明年間には、岩木山信仰と結びつく形で「山椒太夫」物語が成立していたことがわかります。「説教節」が伝播して、津軽の古くからの伝承に結びついて、安寿姫が岩木山の神様になった時期は、江戸時代の初期にさかのぼるのではないでしょうか。

森鴎外は弘前に居住したことがありますから、「山椒太夫」のヒントは「説教節」ではなく、地元の人から聞いたのかもしれません。

丹後嫌い

安寿姫を祀った津軽の人たちは、山椒太夫の同郷である丹後の人を強く嫌っていたようです。さきに紹介した古川古松軒の「東遊雑記」に「このたび御巡検使御下向につき江戸において、御三所に津軽候より使者来たりていう、このたび召しつれたまう御家来のうち、もし、丹後出生の人あらば、御無用あるべしとのことなり」と俗信を盾に巡検使一行から丹後出身者を除くことを、幕府に申し入れたことが記載されています。

菅江真澄も、深浦に滞在していた寛政10年(1798)6月16日の日記で、「『丹後船がいるのではないか、このごろうちつづく雨といい、空模様もただならぬのは・・・』とうわさして、たくさん停泊していた船のかじとり、船長らをみな、神社の御前にあつめ、岩木山の牛王宝印をのませて、岩木の神は丹後のくにのもの、とくに由良の港の人を忌みなさるから、『その国の人ではない』という誓約文に、みな爪じるしをさせた。」と書いています。

文政13年(1830年)の津軽藩からのお触れ書き、つまり公文書にもはっきり書いています。「頃日、天気不正につき、丹後者入り込み候も万はかりがたく候間、居合わせ候わば、さっそく送り返し候ようさきごろ申し触れ候えども、当今丹後者入り込み忍びおり候や、天気不正につき、各組下宿など、きびしく詮議のうえ、もし居合わせ候わばさっそく送り返し、その段申しいで候よう。」

このように藩が大真面目に、天気が悪いのは丹後者が入ったからだと、探索を指示しているのです。しかも、「さきごろ申し触れ候えども」とありますので、繰り返して発出していたのだと思われます。

森鴎外の小説「渋江抽斎」にも津軽の丹後嫌いがでてきます。時代は明治初期、主人公渋江抽斎の死後、遺族が弘前に移住するのですが、一行が弘前に到着してまもなく暴風雨があります。津軽では暴風雨は岩木山の神の怒りだと信じているので、岩木山の神が嫌う丹後か南部の人が津軽に入ったのではないかとして、一行の中にいた中条という使用人を疑います。中条は常陸の生まれだと抗弁するのですが、諭されて江戸に帰ることになったというのです。

女人禁制

ところで、岩木山は女人禁制の山でした。これについても古川古松軒の「東遊雑記」を紹介します。

「(岩木山は)女人は禁制の山なりといえり。予思うに、安寿姫を祭りし山なるに、何とて女人を禁ずるやいぶかし。山険しきゆえに婦人を禁ずるなるべし。女人をきらう神も仏もあるまじきに、(中略)国々に女人禁制の山多し。婦人にして迷惑のことならずや。」

江戸時代の知識人はおおむね男尊女卑だったのではないかと思っていましたが、古川古松軒先生は進歩的な考えをお持ちだったようです。

女人禁制解除

岩木山の女人禁制は明治5年に解けました。

すぐに登頂を試みる女性はいなかったようです。翌明治6年(1873)7月、仙台生まれで弘前の医師に嫁ぎ、画家として知られていた兼平亀綾が初登頂して話題になりました。

その36年後、明治42年8月16日に私立弘前女学校の生徒が集団で登頂しました。明治42年8月9日付の東奥日報は次のような書き出しの記事を掲載しています。「私立弘前女学校においては夏季休暇利用の修学旅行として岩木山登山を計画したるが、その目的、準備などすこぶるハイカラにして当地の老人をあっとばかりに仰天せしめたり。」

これが女性が団体で登頂した初めての登山として記録されています。8月15日午後3時学校出発(坂本町校舎=現弘前郵便局)、百沢で1泊、翌日午前1時登山開始、山頂にて祈禱、嶽温泉に下りて1泊、最終日は午前7時出発、岩木橋で解散という全徒歩2泊3日の旅でした。私立弘前女学校は現在の弘前聖愛高等学校です。

むすび

岩木山は、地元では「おいわきやま」あるいは「おやま」と親しまれ、古い時代から今日まで津軽のシンボルです。しかし、岩木山にまつわる多くの伝承は、近頃はあまり語られることがなく、書物の中のことになってしまったようです。丹後の人を嫌う話は年配者からもほとんど聞かなくなりました。

参考文献
東遊雑記 東洋文庫
菅江真澄遊覧記3 東洋文庫
渋江抽斎 森鴎外 青空文庫
新編弘前市史


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