斗南藩の誕生と消滅

会津藩の処分

斗南(となみ)藩は、戊辰戦争の敗者である会津藩が、敗戦処分により大幅に減禄の上、転封されたことにより創設された藩です。

政府は、明治2年11月4日に会津松平家の家督を松平慶三郎容大が相続することを認めました。

ただし、会津藩の領地は没収され、新たに猪苗代か盛岡藩領のいずれかに3万石が与えられることになりました。藩の重臣達は11月14日に盛岡藩領を選択しました。(選択の余地はなかったという説もあります。)

新しい藩の創設が決まったことを受けて、明治3年1月5日には、東京と高田に収容されていた藩士の釈放が始まりました。

新しい領地は、現在の青森県下北郡と三戸郡にほぼ重なります。二戸郡九ケ村、三戸郡二十三ケ村、北郡三十五ケ村の計七十ケ村で石高の合計は約三万石でした。他に、北海道の太櫓(ふとろ)、瀬棚、歌棄(うたすつ)、山越の4郡にも領地がありました。

藩士の移住

生き残った旧会津藩士は3,810戸だったそうです。そのうち斗南に向かうことにしたのは2,800戸、帰農が500戸、会津残留が210戸、その他各地移住が300戸でした。(会津戊辰戦史による)

むつ市の大平海岸にある斗南藩上陸之地の碑文には、「現在の青森県下北郡・上北郡を中心に、会津から移住して来た藩士とその家族は2,600戸17,300余人と記録されています。」とあります。

また、葛西富夫著「斗南藩史」には次のように記載されています。

旧会津人斗南北海道其他移住人別による移住者数
明治三庚午年御新封南部御支配地斗南へ挙家移住人
東京並越後高田藩御預ケ謹慎ノ者ハ該所ヨリ乗船、右家族並会津ヨリ移住者ハ越後新潟ヨリ乗船
夏起海行  六五八人
秋起海行 一二一四人
冬起陸行  八八八人

この数字を合計すると2,760人です。これは世帯主の数です。

移住者数については資料によって差異があります。混乱のため正確な数字がつかめなかったのかもしれません。

藩庁設置

明治3年(1870年)4月18日、斗南藩は旧盛岡藩五戸代官所に藩庁を設置しました。

五戸代官所

その後、藩庁は田名部の円通寺に移されました。

斗南藩は下北の開拓に取り組みましたが、結果的に大失敗に終わりました。農業に不慣れな武士とその家族に、農耕に適さない土地を開拓させるという根本に無理があったのです。

後から考えれば、豊富な林業資源、鉱物資源、水産資源に目をつければよかったのですが、実務能力のあるものが多くが戦死していたことが不運でした。北海道の領地にもほとんど手が回りませんでした。

斗南藩の消滅

斗南藩は、明治4年7月14日の廃藩置県を機に弘前藩との合同を望み、明治4年(1871年)9月4日に、七戸県・八戸県・黒石県・舘県(北海 道=松前藩)と共に、弘前県と合併して弘前県の一部になりました。

つまり、斗南藩は、明治3年(1870年)4月18日から、明治4年(1871年)9月4日までの1年と5ヶ月と18日間だけ存在した藩ということになります。

なお、弘前県は同年9月23日に青森県と改称し、その後旧舘県を北海道開拓使に移管するなどして、現在の県域が確定しました。

斗南藩の消滅とともに開拓事業は中止され、藩士は離散することになりました。

むつ市史によれば、若松県へ移住854戸、三本木(現十和田市)開拓に従事328戸、東京府へ移住52戸、新潟県へ移住11戸、開拓使へ移住9戸、福島県へ移住8戸、京都府へ移住7戸、神奈川県へ移住4戸、木更津県へ移住3戸、栃木県へ移住2戸、八戸へ移住2戸、印旛県へ移住2戸、静岡県へ移住1戸、宮城県へ移住1戸、白川県へ移住1戸、千葉県へ移住1戸、岩手県へ移住1戸、その他9戸となっています。

その後も生活難から土地を離れるものが相次ぎ、明治16年には、藩庁が置かれていた田名部に残留していた旧会津藩士は51戸に激減していました。

斗南藩史跡地


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