「外浜奇勝(三)」をたどる

外浜奇勝(三)について

江戸時代の紀行家菅江真澄の「外浜奇勝(三)」に出てくる通過地や滞在地をだどります。寛政10年(1798)の旅です。

小湊に滞在していた菅江真澄のもとに、藩の薬頭からの使者として山崎永貞が訪ねてきます。山崎の誘いに応じて、小湊(平内町)を出て浅虫を経て青森に入り、柴田の家を訪れます。

文中の日付は旧暦です。なお、日記が始まる寛政10年4月7日は新暦では5月12日にあたります。日記が終わる7月8日は8月19日にあたります。

以下、東洋文庫版菅江真澄遊覧記3「外浜奇勝(三)」からの引用です。

寛政10年4月7日

去年の夏、津軽の山々を歩いて薬草を採取して藩の薬園に植えられたこと、その功労に褒美がでたことを書いています。

また、山崎永貞からの、秋田に近い深山を調査するに際して同行してほしいとの申し出を承諾します。

そこで、三月の半ばに、滞在していた小湊を出立して、童子、田茂木、神木(かんき)の坂を経て、浅虫の温泉につきます。

四月の初めになって浅虫を出立して青森の港の柴田の家を訪ね、三、四日滞在します。

そして、四月の七日、柴田の家を出立し、浜田の治右衛門桜を見に立ち寄ります。

妙見菩薩の林で薬草を採取します。

高田村、機織の神社、片子山を行き、浪岡に着きます。さらに水木に入り、毛内の家を訪れます。

4月8日

毛内家に滞在しています。明日弘前に行くことにします。

4月9日

藤崎に行き、去年の夏、深浦で別れた佐渡が島の医者大久保某に会います。語り合ううち日が傾いたので河越の家に泊まります。

4月10日

川で「みのうお」の漁をする「とめ」というものを見にいきます。弘前に入ります。川の瀬に杭をうって縄網をはり四手網をおろす漁です。この川について東洋文庫版では岩木川と括弧書きしていますが、藤崎を出て弘前につく前なので平川ではないかと思います。

弘前に着きます。

4月11日

弘前に滞在しています。体調が悪くて薬をのんで休んでいます。

4月26日

山崎永貞と一緒に外瀬の薬園に行きます。夕方に北岡の家を訪ねます。

4月29日

弘前に滞在しています。あすは弘前を出立するつもりです。友人たちが送別の宴を催してくれます。

5月5日

弘前に滞在しています。何やかやのこといにかかずらい、役人からの通知もないので5日になってしまいます。

5月9日

弘前に滞在しています。藩主が帰国する日です。昨夜から内外を掃き清めてお迎えの準備をしています。

5月10日

愛宕の社に出かけます。

熊島、高屋、八幡、植田、愛宕山橋雲寺、細越、折笠を経て、宮館村に着き工藤某と語らいます。

三つ森、独狐、石渡、土子崎を経て浜野町のはずれで岩木川をわたって弘前に帰ります。

5月12日

山崎永貞と共に、昼ころ弘前を出立して、からない坂、悪戸、湯口、黒滝、五所、水木在家、石倉という沢、へらぐまいの一盃盛という岩、不動明王の岩屋戸、猿渡の橋、小倉の岩屋戸にまつられている神明の社に詣で、この村で宿をとります。

5月13日

外小倉、杉が沢神社、天狗森、花咲松と歩きます。

5月14日

村市を出て、畳平、藤川、さぶ沢、木戸の沢、滝の沢、蕗が平、阿葛(あつら)沢に入ると木こりの小屋があり、さらにわけいると尾太鉱山の廃虚があります。木こりの小屋に戻って泊まります。

5月15日

朝、起き上がった男たちが、「昨夜、まさしく万足(まんぞく)を夢にみたが、彼の魂がやってきたのであろう、ああ、おそろしい山中だ」などと語り合います。

鼬淵、曲渕、もふかの倉、砂子瀬で休み、川原平に着きます。

5月16日

暗門の沢、もろ滝の山ふかく入って薬草ととろうと出発しようとするとき酒をすすめられます。主人が「めくそおとしにまいらせろ」と言います。眠気覚ましにという意味です。暗門川沿いに斧淵、柳沢と進み弁財天岩のほとりまできます。日は半ばですが行く先に泊まるところがないので、鬼川辺のほとりにある木こり小屋に入ります。

5月17日

暗いうちからおきて、柴倉山の麓近くに昔の「かなしき(鉱坑)「があります。おかいちこの沢に下って、諸(もろ)滝の上方から見下ろします。滝見物を終えて、さまざまの薬草を採取し、鬼川辺の小屋にふたたび泊まります。男たちは蕨をとり、うどの若芽を摘んで煮たり、やまべやいわなを釣ってきてあぶります。

5月18日

しらじらと明けわたって出立します。ひばり沢、かぶと山、はや沢をあとにして正午ころ川原平に出ます。川原平に泊まります。

5月19日

川原平を出立し、いちの渡り、とのいの坂、村市村を過ぎます。上太秋の村長の家で休息し、下太秋、白沢、青平とあるきます。雨が降ってきてぬれながら根野山、吹上という小川の橋を渡って暗くなったころ百沢に着きます。斎藤規房の家を訪ねて宿を借ります。

5月20日

薬草を求めて、岩木山の麓、鬼神のほとり、大清水、庚申の石碑のほとりを巡りあるきます。

5月22日

守山(森山)にのぼり、守山明神の周辺で薬草を採ります。くろつちの神社のほとりを行って、清水にでて観世音に詣でて帰ります。

5月23日

百沢を出て岩木山に登ります。はしたで、くびれと、おとしの沢、寺の沢、姥石、大黒石、霰(あられ)坂とのぼります。綱曳(つなはえ)という急坂をのぼります。

種蒔苗代を経て、山頂の祠に詣でます。薬草を採りながら下山します。

5月24日

岳温泉に行きます。

5月27日

湯の沢、硫黄堆(いおうたい)、手斧山の麓の沢水を渡って進みます。

5月28日

湯段のいで湯に行きます。枯木平の牧、冷水の沢、杉平とたどり、松平村に着きます。さらに土倉坂をのぼり一本杉という村に入って宿をとります。

5月30日

中村川、滝の沢村、古館、七曲り、丁子小平、長平村に入り、十腰内観音の神主長見某を訪れます。

6月1日

長見の家に滞在しています。今日は忙しい仕事をすべて休む日で、まぐさも刈らず、田の草も抜きません。この家も同様だと引き止められたのでとどまります。また、「ひのもち(凍らせた干し餅)」を食べるひです。

6月2日

赤倉岳にのぼろうと出立します。大石明神、けわしい山道を進みますが、案内人がおそれて進もうとしないので戻り、途中雨がふってきたので大石明神で雨宿りします。夕方暗くなってから長見の家に帰ります。

6月4日

雨具を身につけて長見の家を出立します。長平村、長間瀬村、前戸川を渡って鰺ヶ沢の港に近い横沢村に着きます。

6月5日

雨が激しいので横沢にとどまります。鰺ヶ沢では橋が落ちたり家が流されたりして大変な騒ぎだと聞きます。

6月7日

浜横沢を出立します。長間瀬、横山、羽立、小野畑、鍵かけ坂、目内崎、漆原を経て、種里の村長の家で休みます。

鬼袋村、一つ森村、大然(おおしかり)村に着きます。

6月8日

川水が深く、この山奥で薬草をとることができないので引き返して目内崎村、姥袋村と行きますが、川が氾濫しているので浜辺にさがり、桜沢、柳田を経て関村に着いて宿をとります。

6月9日

晴れました。風合瀬で休憩して夕方深浦に着きます。知人の竹越里圭の家が去年焼けたというので仮屋を訪れます。去年泊まった若狭屋某のところに宿をとります。

6月13日

深浦に滞在しています。山崎永貞が大間越に出立しますが、真澄は体具合が悪いので残ります。

6月14日

深浦に滞在しています。舟に白幣をおしたて、笛太鼓ではやしながら廻船の間を漕ぎまわっています。船神楽といいます。

6月16日

深浦に滞在しています。天候が悪いのは丹後船がいるのではないかと、船のかじとりらを神社に集めて、「その国の人ではない」という誓約文に爪じるしをさせています。

6月18日

深浦に滞在しています。神主が大ぜい、笛太鼓ではやしながら神歌をうたい、獅子頭をまわして歩いています。家も浜辺もにぎわっています。

6月19日

深浦に滞在しています。まくちの観音菩薩(円覚寺)の夜まつりを見学しています。

6月20日

深浦に滞在しています。まくちの観音菩薩(円覚寺)の神楽と奉納の相撲を見学しています。

6月21日

深浦に滞在しています。戌のころ(午後八時)けまりの大きさの光が磯山から北をさしてとび、海の上で三つに砕け散ります。

6月25日

深浦に滞在しています。雨で延びていた愛宕の神の試楽が今宵行われました。

6月28日

山崎永貞が帰ってきたので、一緒にこの浦の山、六角沢に分け入ります。

6月29日

やましまだという深山に分け入ります。

7月1日

深浦に滞在しています。雨で採草の仕事を休みます。

7月2日

再び六角沢に入ります。

7月3日

深浦を出立します。なれしたしんだ人々が送ってきて、磯辺まできて別れます。広戸を経て追良瀬に着きます。

7月4日

曲り倉、いちふちのほとり、見入山、松原村を過ぎて進もうとしますが、川水が増水しているので道を探しながら戻ります。

7月5日

追良瀬村を出立します。驫(とどろき)に着いて宿をとります。

7月7日

うえのやま、ふたまた、ほっくらという山沢を深く入って日暮れに驫木に戻ります。

7月8日

驫を出立します。風合瀬、大戸瀬、小戸瀬、田野沢、金井が浜を経て、赤石に着きます。


津軽のつとー外浜奇勝(三)ー雪の道奥雪の出羽路

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