如来瀬の神明宮に参拝してきました。もとは阿弥陀如来を祀る如来堂だったのが明治の神仏分離で神明宮になったようです。
参道に板碑の案内板がたっています。如来瀬神明宮の板碑は弘前市指定有形文化財とのことです。
一つは永和二年と刻まれているそうです。西暦では1376年、室町時代の初期、南北朝時代のものです。
江戸時代の紀行家菅江真澄は、古い石碑があると聞いて如来瀬を訪れて一泊しています。菅江真澄が探したのがこれらの板碑であったかどうかはわかりません。
菅江真澄 津軽のをちより
「紙漉沢というところを過ぎて、賀佐の坂を越え、五所という村にはいり、如来瀬村にたいそう古い石碑があると聞いたので、川をわたり、その村をたずねて、路傍に立っているのをみたが、どれほどの年を経たものか、さぐっても文字がありそうにもみえなかった。帰ろうにも夕暮れが近いので、この村に宿をかりた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政九年(一七九七年)五月十六日の日記より引用
参道の右手に「如来瀬石切丁場跡(にょらいせいしきりちょうばあと)」の案内板がたっています。
案内板抜粋
「如来瀬石切丁場跡は、江戸時代中ごろに当たる一七世紀末 (元禄年間) に、弘前城本丸の石垣の原材料となる石材が採掘された場所です。(中略)なお、「石切丁場」とは、石垣などに用いるための石材を地面から掘り出したり、大きな岩塊から切り出したりするとともに、使いやすくするため加工作業を行った場所の名称です。(中略)この石切丁場では、北西に位置する岩木山から供給された輝石安山岩を採掘し、矢 (鉄のクサビ) を打ち込んで直方体に加工しました。(中略)石材はその後、そりや大八車などに載せられ、人や牛に引かれて弘前城まで運ばれました。」
大きな石が散在しています。
神明宮は少し小高いところに鎮座しているのでとても景色がよいところでした。岩木川の方向には遠く八甲田の山並みがみえます。
如来瀬の地名は、ここにあった如来堂が起源らしいです。