南部と津軽

青森県の青森市と弘前市、五所川原市を含む西側半分を津軽地方といいます。八戸市と十和田市、むつ市を含む東側半分を南部地方といいます。

津軽というのは弘前を居城とした津軽氏の津軽です。南部というのは盛岡を居城とした南部氏の南部です。

青森県は明治初期に弘前県を始めとする6つの県が合同してできた県ですが、実質的には津軽藩に南部藩領の一部を編入してできた県だと言えます。

南部地方と津軽地方は、江戸時代を通じて異なる藩が統治した地域であるため、方言が大きく異なり、祭りも異なり、細かな生活習慣も違うようになっていました。

そのため、青森県発足後もしばらくの間、青森県人という前に津軽、南部という異なる郷土意識が残っていました。

それに加えて古い事件があります。

もう過ぎ去った遠い過去のことですが、南部の方では今でもいくらか尾を引いているようです。

津軽藩成立の経緯と、相馬大作事件と、野辺地戦争です。

津軽藩の成立

鎌倉時代は、南部地方には南部氏、津軽地方は曽我氏、工藤氏、安東氏がいました。いずれも幕府執権北条氏に属していました。

室町時代には、曽我氏、工藤氏、安東氏が没落し、青森県全域が南部氏の支配下に入りました。

津軽地方には南部側の城がいくつもありました。主なものは、浪岡城(青森市浪岡)の北畠氏、と石川城(弘前市石川)の石川氏です。

戦国時代の終わりころ、石川城にほど近い堀越城にいた大浦為信(後の津軽為信)が突然立ち上がって石川城を攻め落とし、次いで津軽地方にあった南部方の城を次々と落としていきました。

南部氏はその当時一族の内紛を抱えていたので有効な反撃ができませんでした。

実力で津軽一円を手に入れた大浦為信は、ときの権力者である豊臣秀吉から領地安堵の朱印状を手に入れ正式に独立をはたしました。

ときは戦国時代であり、力があるものが周りを従え、場合によっては下剋上も当然という時代だったので、為信が大名に成り上がったのは責められることではないのですが、南部氏としては、南部の内紛のすきを見てどさくさ紛れに領地を奪い取られたという気持ちが残りました。

相馬大作事件

江戸時代の半ば、津軽藩の働きかけが功を奏し、津軽氏は江戸城における席次を上げて南部氏より上になってしまいました。

当時の南部藩主はそのことを苦にして、一説によると「余の家来には一人の大石内蔵助がおらぬのか」と嘆きながら亡くなったということです。

この主君の意を汲んで、下斗米秀之進という藩士が津軽藩主の大名行列を襲撃する計画を立てました。実際に火器を用意し、同志とともに羽州街道の矢立峠で待ち伏せたのです。

津軽藩は待ち伏せを察知し、行列を別街道に迂回させて難を逃れました。襲撃に失敗した下斗米は相馬大作と名を変えて江戸に潜伏しましたが、捕らえられ斬首されてしまいました。これがいわゆる相馬大作事件です。

野辺地戦争

幕末の戊辰戦争の時、奥羽の各藩は会津を救済する目的で、奥羽列藩同盟を作って新政府軍に対抗しました。

津軽藩も同盟に参加していたのですが、情勢を見て同盟から離脱しました。南部藩は最後まで同盟側に残りました。

戦争が始まると、新政府軍が火器兵力において同盟側を圧倒し、同盟の各藩は相次いで降伏しました。南部藩も9月21日に降伏しました。

ところが、23日の早朝に津軽藩は野辺地を攻撃しました。津軽藩では連絡の食い違いがあったとしています。

南部側の守備隊は、戦争は終わったと思っていたので一時混乱しましたが、体制を立て直して反撃し、津軽側は多くの死傷者を出して敗走しました。

この戦闘は津軽藩の敗北でしたが、戊辰戦争としては新政府軍が勝っていたので、津軽藩は南部藩の郡奉行新渡戸伝らを呼び出して強く叱責するなど傲慢な態度で戦後処理にあたり、自藩の戦死者は手厚く葬りながら、南部藩の戦死者については埋葬すら許さなかったと伝えられています。


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