堰神社 藤崎町

堰(せき)神社は、藤崎町横松に鎮座しています。

堰神社

1609年(慶長14年)、浅瀬石川から藤崎堰に用水を引き入れる堰根の工事の際、太郎左衛門という人が人柱になって工事を完成させたと伝えれています。

拝殿

拝殿の社額

社額

1797年、菅江真澄も訪れて由緒を記録しています。

菅江真澄 津軽のをちより
「藤崎にでると、福田の神という社があった。その由緒を問うと、黒石のほとりの境松というところに、堰八村といって、田に水をひく堰が八つ流れている。そこに見張小屋を建て、番人の士をおいて守らせていたが、たいそう荒い水のためにおしながされて、いつも守りきれなかった。そこで堰八太郎左衛門という堰守の士が、「世に人柱というためしがあると聞いている。そうすることが水を治めるのによいであろう」と、天に祈り、地に誓って、(中略)井杭とともにうたれ埋められた。そしてそこに堤をきずき柳を植えたのちは、全然いささかの水害もうけることなく、広い田面に水をひくことが容易になった。その太郎左衛門の霊を神として斎い祭り、堰八明神と称え、福田の神とか堰神とも申し奉っている。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政九年(一七九七年)五月二十七日の日記より引用

手水舎のそばに立つ銀杏の大木です。

いちょうの大木

摂社の神明宮

神明宮

摂社の天満宮

天満宮

菅江真澄 津軽のをち 続き

「そのころ、領主から五千刈の田地をこの社に寄進されたが、どういう事情からか、のち田地はめしかえされたので、福田の堰神の社は荒れほうだいに荒廃した。(中略)堤はくずれ、堰は破れて、それから築いても築いてもむかしのようにならなかった。(中略)福田の神の御たたりであろうとおどろかれ、田地をもとのように堰八の子孫に与えて、正保二年(1645)に社も再建された。この神社のうちに太郎左衛門が自らつくった木の人形があり、深く秘めている。その子孫の堰八吉宮という人が神主になって、社のかたわらに家を建てて住んでいた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政九年(一七九七年)五月二十七日の日記より引用

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