養正小学校跡 弘前市

弘前市清野袋二丁目、北和徳工業団地入口と表示された信号機の下に養正小学校跡という石碑がたっています。昭和35年までこの地にあった弘前市立養正(ようせい)小学校の記念碑です。

養正小学校跡の碑

石碑の裏面に次のように沿革が刻まれています。

養正小学校沿革大要
中津軽郡向外瀬村に木別小学設立 民家借用 児童数四十一名
同郡清野袋村に川田小学設立 民家借用 児童数三十二名
一 明治二十年九月二日木別小学と川田小学を統合 清野袋村南端に校舎を新築 養正尋常小学校と称す 二学級
一 明治三十五年 八月 清野袋村字川田の現在地に校舎を新築移転する 四学級
一 明治四十四年 八月 五学級編成 児童数 二五〇名
一 昭和十六年 四月 和徳村立養正国民学校と改称
一 昭和二十二年 四月 和徳村立養正小学校と改称
一 昭和三十年 三月 市村合併により弘前市立養正小学校と改称
一 昭和三十三年 八月 岩木川大洪水のため堤防決壊により校舎使用不能となり仮校舎にて授業を開始する
一 昭和三十五年 八月 弘前市立時敏小学校と統合 木別小学川田小学より八十四年 養正小学校として七十三年の歴史の幕を閉じる
一 平成三年 四月 弘前市立北小学校創立

木別は向外瀬村の地名、川田は清野袋村の地名です。向外瀬村と清野袋村は明治22年に和徳村と合併しました。和徳村はその後弘前市と合併しました。

石碑には木別小学と川田小学の設立年が書いてありませんが、新編弘前市史通史編4によれば明治9年の設立となっています。

明治5年から6年にかけて発布された「学制」により、人口600人に対して一つの小学校を設置しなければならなくなりました。当時の弘前町で公立として一番早かったのが、明治6年10月1日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)でした。木別小学と川田小学は3年遅れで創立されたことになります。

石碑に「小学」とありますが、当時は「小学校」ではなく「小学」が正式名称だったからです。(尋常)小学校が使われ始めたのは明治19年からです。

まとめると、向外瀬村に木別小学、清野袋村に川田小学ができたのが明治9年。その2校が明治20年に統合して養正尋常小学校になり、昭和35年まで弘前市立養正小学校として存続していたが時敏小学校と統合して閉校になった。その後、平成3年に時敏小学校から北小学校が分離したことにより、学区は北小学校に引き継がれている。ということになります。

付近

石碑の付近から岩木川方向の写真です。信号機の先が岩木川です。

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