こちらの神社には江戸時代の紀行家菅江真澄が詣でています。
菅江真澄 すみかの山より
「堤川の橋をわたり、茶屋町を右手にみてすすみ、松森の村のすぐ近くのところまでくると、さいかしの年を経た大木がふしているような杜のなかに祠があった。むかし、源九郎義経の脛巻(はばき)をかけて、神とまつり奉ったのであるという。この松杜のほとりにある社に、いまは松尾の神をうつしまつっているが、すべてあらはばき明神と申しているという。馬草を刈っていた男が近くへ寄ってきて、「こんな小さな堂ですが、判官殿の脛巻をおさめて、あらはばきの杜とも、またしりべつの林とも申して、尊い神です」と語る声といっしょに、ほととぎすがさかんに鳴いていた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政八年(一七九六年)五月一日の日記より引用(抜粋)
菅江真澄が訪れたとき、この辺りは森のなかでした。住宅地の真ん中にある今の松尾神社からは想像がつきませんが、境内に残る数本の大木が森のなごりと思われます。
松尾神社という名称からすると、京都の松尾大社から勧請したと思われます。松尾大社は、古くは渡来人秦氏の氏神ですが、醸造の神様として著名です。
菅江真澄は、義経の脛巾(はばき)が納められたといういわれから、あらはばき明神とよばれていると書いています。
脛巾は、旅行や作業のときに、すねに巻いていたもので、脚絆(きゃはん)とほぼ同じものです。「あら」がついたのは、義経が悲運の武将なので荒魂のあらがついたのでしょう。
また、地元の人が「しりべつの林」と言ったとも書いています。
これについて菅江真澄は、阿倍比羅夫が蝦夷遠征の際に郡領を置いたとされるシリベシを連想しつつ、アイヌ語で、シリは崎、ベツは川なのでこの松森の地形から古くはそのように言ったのだろうかと記しています。(すみかの山脚注より)