今の青森県の東部地域、通称「南部」と呼ばれている地域は、江戸時代は盛岡藩の領地だったのですが、盛岡藩が戊辰戦争で敗れて領地を没収されたため、明治2年から明治3年にかけて、行政機関や行政区分が目まぐるしく変化しました。その流れをまとめてみました。
江戸時代
現在の青森県の地は江戸時代を通じて、概ね東半分が盛岡藩とその支藩の八戸藩、西半分が弘前藩とその支藩の黒石藩の領地でした。
戊辰戦争直後
戊辰戦争に敗れた盛岡藩は、旧領地(石高20万石)を没収され、陸奥国白石(石高13万石:現在の宮城県白石市)へ転封されました。八戸藩は宗家である盛岡藩ともに奥羽越列藩同盟に参加していましたが、藩主の実家が薩摩であったことが幸いして戦後処分の対象にならず、領地が安堵されました。弘前藩と黒石藩は新政府についたため、当然に領地の変更はありませんでした。
旧盛岡藩の没収地のうち北部の地域(現在の青森県東部)は、当初、弘前藩取締地と決定されましたが、明治2年(1869年)2月に現在の栃木県大田原市を領していた黒羽藩(くろばねはん)の取締地へ変更されました。
黒羽藩による統治
黒羽藩が統治にあたった理由
1. 戊辰戦争での「早期恭順」と新政府派としての実績
黒羽藩(藩主:大関氏)は北関東の諸藩の中でもいち早く新政府への支持(恭順)を表明し、奥羽越列藩同盟には加わりませんでした。東北戦争においては、会津藩や日光口の旧幕府軍との戦いに新政府側として参戦・動員しており、新政府から信頼できる藩とみなされていました。
2. 「中立的な緩衝材」としての適任性
最初に旧盛岡藩領の統治を任された弘前藩は、旧盛岡藩と歴史的に深刻な宿怨があり、民衆の反発を引き起こしていました。
3. 洋式軍制や開明的な遺産
黒羽藩は小藩でありながら、幕末の藩主・大関増裕(ますひろ)が海軍奉行を務めた人物であり、藩内に洋式軍隊の導入や蘭学・洋学の推奨を進めていた経緯がありました。小規模ながら組織的な軍隊を保持していたため、現地での行政や治安活動が可能だとみなされたようです。
まとめて言えば、新政府への忠誠度が高く、南部・津軽のどちらとも遺恨がない「中立な立場」であること、東北方面に近く治安維持に必要な兵力を動員できることの条件に合致したのが、新政府軍に参加して東北に入っていた黒羽藩でした。
黒羽藩の統治体制
1.役所の名称
黒羽藩は盛岡藩の三戸代官所に役所に設置しました。
その際、その支配組織・管轄区域を仮に「北奥県(ほくおうけん)」と称したとされています。
「北奥県」の名称は、大田原市に合併された旧黒羽町の自治体史である「黒羽町誌」(およびそれを継承した大田原市の地域史資料デジタルアーカイブ)の「戊辰の役と黒羽藩」の項目に、戊辰戦争における黒羽藩の軍事的功績(白河口や会津攻城戦への出兵など)に続けて、次のように記述されています。
「なお黒羽藩は棚倉及び近邑などを鎮撫し、民事に当り、明治二年二月には南部領の取締りを命ぜられ、北奥県と称し、同三年四月斗南藩に引き継がれるまで治めたのである。なお権知県事は村上一学であった。」
この資料には、「明治2年2月に南部領(旧盛岡藩領)の取締りを命じられたこと」「現地で『北奥県』と称して統治を行ったこと」「明治3年4月に斗南藩へ引き継ぎを行ったこと」の一連の流れが記録されています。
現実には、黒羽藩取締りは政府設置の三戸県に引き継がれ、三戸県から斗南藩に引き継がれたのですが、「黒羽町誌」では三戸県が省略されています。
これは、明治2年8月の「三戸県」設置後も、北奥県を率いていた黒羽藩の村上一学が、引き続き「三戸県の行政トップ(権知県事)を務めたため、「明治2年2月〜明治3年4月まで黒羽藩(の出身者たち)が治め、最後に斗南藩に引き渡した」という一連のまとまった事業・任務として捉えていたためと考えられます。
なお、葛西富夫著の「斗南藩史」には、「三戸郷土史」を引用して次のように記載しています。
「南部利剛公は領地召し上げられ東京に謹慎、嗣子利恭公は白石に移封され、旧領地の二戸・三戸・北三郡は天領となり、その取締を弘前藩に命ぜられた。弘前から支配されたのはタッタ三か月。明治二年二月には上野国黒羽城主大関美作守の取締に属した。その年四月、三戸において盛岡藩代表新渡戸伝と黒羽藩権知事村上一学との間に引渡手続を了した。県の役所は、すなわち、三戸代官所跡で三戸県御役所と称えた。
この資料には、「明治二年二月に黒羽藩が南部領(旧盛岡藩領)の取締りを命じられたこと」と「県名は三戸県であったこと」が記載されています。この資料には「北奥県」は出てきませんが、「黒羽町史」だけでなく、「青森県史資料編近世6」などに「北奥県」がみられるので、戊辰戦争後に旧盛岡藩領にできた最初の県が「北奥県」であることは間違いないと思われます。
ただし、黒羽藩の記録に、「北奥県と称し」とあります。「称し」という文言からは「正式ではない」という意味が含まれているように思えます。政府が発した正式名称ではないが、内諾を得て使用していたと考えたのですが、あくまでも推測の域を出ません。
三戸県の成立
明治政府の地方統治が整備再編されていく過程で、黒羽藩取締地は三戸県に移行することになります。
ただし、黒羽藩取締地がそのまま三戸県に移行したのではなく、短期間に若干複雑な動きがあります。
九戸県
まず、今の岩手県北部の二戸市・九戸村の地域を統治する機関として九戸県が設置されていました。明治2年8月7日の発足でした。役所は、九戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)に置かれました。
八戸県(第一次)
九戸県発足の翌月、明治2年9月13日に、役所が九戸郡福岡から八戸城下(現在の青森県八戸市)に移転して、名称が「八戸県」に変更されました。
なお、この八戸県は、後に廃藩置県で発足した八戸県とは別のものなので、第一次八戸県と呼ぶことがあります。第一次八戸県があったのは、明治2年(1869年)9月13日から9月19日までの「わずか6日間」という極めて短い期間でした。
三戸県
この八戸県(第一次)と黒羽藩取締地を継承したのが、明治2年9月19日に設置された「三戸県」です。三戸県の役所は八戸ではなく、黒羽藩による「北奥県」の役所を継承して三戸に置かれました。
斗南藩の創設
明治政府の戦後処理のひとつとして、三戸県の一部が旧会津藩による「斗南藩」に引き渡されることになりました。
引き渡しの完了は明治3年(1870年)4月18日でした。
補足:江刺県
三戸県と同時期に「江刺県」という行政機関がありました。江刺県というのは当時、三戸県の南隣にありました。今の奥州市江刺に役所が置かれていました。
斗南藩が成立したとき、「三戸県」のうち、斗南藩領に入らなかった残余の地域が「江刺県」に編入されました。
三戸県(約5万2,000石)のうち、下北半島(北郡)や三戸郡・二戸郡などの約3万石が斗南藩領に割り当てられ、三戸県の残部(二戸郡の一部や鹿角郡など)は、南隣の江刺県に編入されました。これに伴い「三戸県」という行政組織は廃止されました。
この三戸県が斗南藩と江刺県に分割されたときの境界線が、ほぼそのまま現在の青森県と岩手県の県境になっています。黒羽藩が治め、斗南藩が引き継いだ北側が青森県となり、江刺県に吸収された南側が岩手県となっていくのです。


