「十曲湖」をたどる

十曲湖について

江戸時代の紀行家菅江真澄の「十曲湖(とわのうみ)」に出てくる通過地や滞在地をだどります。文化四年(1807)の旅です。

誘ってくれる人があって毛馬内(鹿角市十和田毛馬内)を出立して十和田湖まで歩きます。十和田湖は青森県と秋田県にまたがっていますが、藩政時代は南部藩の領地でした。

毛馬内に戻ってから日をおいて銚子滝を見に出かけます。この「銚子滝」は、奥入瀬渓流にある「銚子大滝」とは別で、鹿角市十和田大湯にある落差18メートルの「銚子の滝」のことです。鹿角市中心部から国道103号を十和田湖方面に北上し、大湯温泉を過ぎてしばらく進み、止滝、中滝を過ぎて、分岐する国道104号に入ってすぐのところにあります。道の駅かづのから約29キロ、大湯温泉から約14キロです。

文中の日付は旧暦です。なお、日記が始まる文化四年8月19日は新暦では9月20日にあたります。

以下、東洋文庫版菅江真澄遊覧記4「十曲湖」からの引用です。

文化4年8月19日

誘ってくれる人があって、かねてから登ってみたいと思っていた十和田山に向けて毛馬内(鹿角郡十和田)を出立します。

湯坂、しるけ川、牛馬長根(うしまながね)、弥五兵衛初立(はだち)、子坂(小坂町)を経て、鳥越の和田某の家に泊まります。

8月20日

ここで会おうと約束していた松尾某が到着したので一緒に出発します。祖神平、雨地平、藤原(小坂町)、七滝明神、鷹の巣平、城が倉、熊坂の峠、徳兵衛平、七本やすを過ぎ、なにしげりかにしげりというところを十一も過ぎ、級の木長根(まだのきながね)について十和田湖を眺望します。

九曲を降りて、駒が嶺政福がとりしまり役をしている鉱山の詰所に入ります。雨が続いたのでここ(大鞍)に滞在します。

真澄がたどった道は、現在の樹海ライン(秋田県道2号大館十和田湖線)の小坂町、七滝を経由して十和田湖に至る道に沿った山道です。

8月26日

湖の岸にある稲荷山にのぼります。島々の景色を時を忘れて眺めます。引き続き大鞍に滞在しています。

8月29日

晴れたので、鉱夫らの案内で大鞍の宿を出立します。雨が降ってきたので杣けど(杣小屋)で雨宿りします。晴れ間をみて抱回(だきかえし)の崎を経て発荷につきます。中の平、桂平を経て休屋につきます。青竜権現(十和田神社)に参詣する人が利用する休屋という建物が三棟、四棟あります。

数も知れないほど鳥居が立ち重なっています。杉の下路を通ってゆくと青竜大権現という額がかかった堂があります。

ここで十和田湖にまつわる伝説をいくつか紹介しています。

奥の院に詣ります。「木の根にすがり、猿がつたうように、水面に近いところにかろうじておりて」散供打ちという占いをします。

「白砂の湖岸」に出て恵比須島、大黒島などを見ます。日が傾いたころ休屋に戻って山かせぎの人たちが採ってきたキノコを食します。

8月30日

朝早く出立します。桂平を経て発荷につきます。ここでも占いをします。御門桂という大木が立つ坂のなかばで眺望を楽しみ、大倉の本山(小坂町)という坑場(鉱山)につきます。

9月1日

大倉の詰所を出て、来たときと同じ道をたどって朱鷺(ときとお)の駒が嶺の家に入って泊まります。ここですすめられるままにしばらく滞在します。

9月8日

朱鷺村を出立します。高清水の村に入ります。師走長根、温泉坂(ゆざか)を経て毛馬内の青山氏の家に着きます。十和田への旅はここで終わります。

9月19日

箒畑(はぎはた)という山里に銚子滝を見に行こうと福本興正と一緒に毛馬内を出立します。大湯の湯桁のある部落、大温泉(大湯)町、篠淵、しのたい、下へくり、上へくり、赤川を経て箒畑の成田正吉の家に着きます。

9月21日

箒畑を出て、高崖(たかくずれ)村、太楽前村を経て、集魚淵の水を危なげにわたり、宝荒神の祠(宝荒神神社)がある萱野発荷を経て白沢村に入ります。

止り滝(とまりたき)、中滝、大滝内(おおたきない)、銚子滝をみます。滝のかたわらに七つ石というかさなりあった石があります。石のほとりから少し温泉がわいています。


雪の道奥雪の出羽路ー十曲湖

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