津軽の曽我氏

鎌倉幕府を開いた源頼朝が平泉の藤原氏を亡ぼし、藤原氏の支配地域でった今の東北地方に配下の御家人を送りみました。

その後、幕府のなかで主導権争いがあり、北条氏が勢力を広げ、握る過程で、現在の青森県地方は北条氏の領地になりました。北条氏の領地を得宗領といいます。

北条氏は現地に入らず地頭代を派遣しました。地頭代は、曽我氏、工藤氏、そして安東氏でした。

曽我氏は、北条氏から地頭代として津軽に派遣された御家人の一人です。

曽我広忠は平賀郡岩楯を拠点にしました。この系統を岩楯曽我氏といいます。鎌倉幕府が滅び南北朝時代になったときは南朝(後醍醐天皇)につきました。

古屋敷館跡

その後、一族の曽我助光が平賀郡大光寺を拠点としました。この系統を大光寺曽我氏といいます。鎌倉幕府が滅び南北朝時代になったときは北朝を奉じた足利尊氏につきました。

大光寺城跡(古館)

元弘4年(1334)元旦、岩楯曽我氏の曽我光高は他の南朝に組する地元豪族と共に大光寺城を攻めこれを落としました。

次いで、5月には石川城を落とし、11月には南部の援軍を加えて持寄城を攻め落としました。

この一連の戦いを大光寺合戦といいます。この戦いで大光寺曽我氏は全滅しました。

南朝の側にたって、同族を亡ぼしてまで奮戦した岩楯曽我氏に与えられた恩賞は期待外れのものでした。そのため、岩楯曽我氏は南朝に見切りをつけ足利尊氏に近づくことになりました。

延元元年(1336)正月、足利尊氏についた岩楯曽我氏らと、南朝についた南部氏との間で戦いが始まりました。この戦いはしばらくの間一進一退で推移しました。

興国元年(1340)、岩楯曽我氏の曽我師助は、足利尊氏の命により八戸根城の南部政長を攻撃しましたが敗退してしまいました。

これ以降、岩楯曽我氏は衰退し、延文4年(1360年)前後に没落したと言われています。

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