蛎崎(かきざき)城はむつ市川内の蛎崎にある中世の城です。建武元年(1334年)頃に武田信義によって築かれたといわれています。
武田信義は八戸を本拠にしていた根城南部氏の家臣で、南部氏の目代(代官)として蛎崎城にいたそうです。
旧蛎崎小学校の西側に案内板が立っています。錦帯城公園とあります。錦帯城は蛎崎城の別名です。
案内板の右手は旧蛎崎小学校です。廃校になっています。
案内板と小学校の間の道を上っていきます。この看板のところまで車で入ることができます。この看板のところで右に入ります。
ガードレールに沿った道を上ります。
頂上は小さな広場になっています。蛎崎城はこの高台を含む地域にありました。旧蛎崎小学校の辺りも曲輪の一つといわれています。
中央に最後の城主、蛎崎信純の供養塔がたっています。
陸奥湾が見渡せます。
五代目の武田信純(蛎崎蔵人信純と名乗っていた)は、康正2年(1456年)に、順法寺城主の新田義純を暗殺し、翌年、八戸南部氏の攻撃を受け落城しました。
→順法寺城
このとき、蛎崎信純は蝦夷に逃れ松前氏の祖になったという説があります。
江戸時代、紀行家の菅江真澄が蛎崎を通っています。
菅江真澄 奥の浦うらより
「小沢という村を経て、なおすすむと、殿崎(現在は蛎崎にある岬の名)というところがある。古城の跡に年を経た木立がふるびているのは、いつごろであるか、松前の領主の遠い祖先がここに城をつくり、たてこもられたところという。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政五年(一七九三年)五月一日の日記より引用
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