唐糸御前史跡公園は弘前の北隣、藤崎町にある公園です。
きれいに整備されています。
唐糸御前の像です。旅姿です。
公園の片隅に古い石碑があります。
菅江真澄が1797年にここを訪れています。
菅江真澄 津軽のをちより
「北条時頼入道に愛された唐糸の前が、人の讒言により、無実の罪で津軽郡に流されていた。(中略)わたくしが世にあったころは鎌倉山の花にも負けまいと装いをこらした美しい姿も、このような草の庵にほぞぼそと暮らし、やつれてしまって、われながら鏡にむかうさえ恥じる姿となっては、どうして時頼の君におめにかかれようかと泣きふし、やがて庵を出て、柳の池に身を投げてしまった。(中略)やがて時頼入道がこられ、深く御嘆きあって、七日の法事に千人の僧を集めて供養し、ここに寺を建てて、一七日山霊台寺といった。その寺のあとは庚申塚となって、今は松が群立っている。かの姫のなきがらを埋めた塚が、日輪沼のかたわらにあり、から糸姫の百年忌を弔ったものであろう、延文四年の年号を刻んだ石の卒塔婆が畠のなかにたっていた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政九年(一七九七年)四月二十七日の日記より引用
公園に設置されている「唐糸御前の伝説」です。
「唐糸御前の伝説
唐糸御前は、鎌倉時代、第五代執権・北条時頼の寵愛を受けた女性です。周囲の妬みを受け津軽の藤崎におちのび暮らしていました。
やがて時頼公は出家して最明寺入道と名を改め津軽にもやってくることを知った唐糸御前は、「落ちぶれて昔の容色が失われてしまった今どうしてお会いできましょうか」と悲しみ、池に身を投げてしまいました。
通りかかった時頼公は、村人から唐糸御前のことを聞きねんごろに菩提を弔い、鎌倉への帰途七日ごとに寺を建立されました。
藤崎の唐糸御前をまつる寺はやがて護国寺になり、後に「唐糸山万蔵寺」と改められ、現在弘前市の禅林街に移っています。
唐糸御前の伝説は、津軽と鎌倉の密接な交流を現在に伝えております。」
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