青森の義経伝説

源義経(みなもとのよしつね)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の弟で、幼名を牛若丸といいました。家来の弁慶らと共に、平家との戦いに戦功を上げましたが、兄頼朝と不仲になって追われることになりました。そこで、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらひでひら)を頼って庇護されていましたが、秀衡の死後、秀衡の子、泰衡(やすひら)に討たれました。1189年のことです。

鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、平泉の高館で攻撃された義経は、妻子を殺して自害したと記されています。そして、義経の首は鎌倉に送られ検分されました。

しかし、その当時から、首は偽物で義経は逃亡したといううわさがありました。そして室町末期ころから、義経は蝦夷地から中国に渡ったという説が生まれ、明治になるとモンゴルのチンギス・ハンになったという説もだされました。

東北や北海道の各地に、義経主従が立ち寄ったとされる伝承が残っていますが、ここでは青森県内の伝承に限って紹介します。

義経はまず八戸に入りました。住まいは平泉のときと同様に「高館」と呼ばれました。現在の八戸市高館だといわれています。

そして義経は、信心していた京都の藤ケ森稲荷をこの地に勧請するため、常陸坊に命じて藤ケ森稲荷の土を取り寄せ、その土を埋めて稲荷社を建てました。それが類家藤ケ森稲荷だといわれています。

義経は、稲荷の近くに茅葺きの小屋を作って、参詣の折泊まることがありました。家来もそのような小屋を建てました。この小屋が家に似ているというので、類家という地名のもとになったといわれています。

この他にも、八戸には義経の伝承がたくさんあります。

頼朝の追求が厳しく、八戸も安全でなくなった義経一行はさらに北上することにしました。八戸を出た一行は、最初に平沼(現六ヶ所村平沼)の橋本家を訪ね、しばらく滞在してから、橋本与治右衛門に案内してもらって青森に向かいました。青森に到着したとき、案内してくれた橋本与治右衛門はそのまま青森にとどまりました。その場所が現在の青森市橋本だといわれています。

途中、野内村(現青森市野内)の貴船神社で、海上平穏の祈願をしたといわれています。ここで、三河の国から義経を追ってきた浄瑠璃姫(じょうるりひめ)と巡り合いますが、姫が病に倒れてしまいました。そのとき、家来の鷲尾経春(わしおつねはる)が看病のため残ったので、鷲尾という地名になったといわれています。

義経主従は、油川(青森市油川)では円明寺(慶長十一年に油川より弘前に移る)に投宿しました。旅中の炊飯は弁慶の役目でしたが、風邪をひいたため、亀井六郎が代わって飯を炊こうとしましたが、水の加減がわかりませんでした。代わってやると言ったてまえ、弁慶に聞くのは恥ずかしく、主人の義経に尋ねたところ、義経は「米一升に水一升三合を入れのだ」と教えたそうです。これを聞いた人々は、このような細事にまで注意が行き届くとは、やはり義経はただの武士ではなく大将の器なのだと語り合ったそうです。

義経主従はさらに北上し、三厩(みんまや=現外ヶ浜町三厩)の海岸に至りました。ここから蝦夷島に渡ろうとましたが、荒天が続き渡ることができません。そこで義経は正観音に願をかけ、三日三晩一心に祈とうしたところ、白髪の翁が現れ三匹の竜馬を与えると言ったそうです。そこで海岸に降りてみると三つの岩穴に竜馬が繋がれていました。これに乗って義経主従は海を渡っていきました。

義経が三厩ではなく、十三湊に行ってから蝦夷にわたったという伝承もあります。

津軽半島の対岸の下北郡脇野沢村には、津軽から船出した義経が風波に妨げられて漂着したという伝承があります。

弱いものに対する同情を「判官(ほうがん)びいき」といいます。義経の官位が判官だったことに由来します。実際の義経は決して弱い者でなく、勇猛な武将だったのですが、悲劇的な最後から庶民の同情をかったのでした。

義経伝説はあくまでも伝説で、義経が平泉で死んだというのは歴史研究者の間では定説になっています。

参考文献
「源平の盛衰」上横手雅敬著
「油川町誌」
「八戸の義経伝説を行く」八戸観光協会


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