津軽にきた黒船

三方を海に囲まれた青森県は、江戸時代中期から幕末にかけて外国船が沿岸にしばしば目撃され、そのなかには上陸してきた外国人もいました。外国人との接触が許されていない時代だったので、この招かれざる客に、各藩は対応に苦慮したようです。以下、弘前藩領の沿岸にあらわれた、外国船について、特に上陸してきたケースを中心に、年代順に整理してみました。

1797年(寛政9年)

閏7月、三厩沖で外国船が目撃されました。

これ以後、しきりに外国船が見かけられるようになりました。最初のころは、いちいち江戸に飛脚で報告していたようですが、あまりの多さに、飛脚は半月に一回まとめて報告することに改められています。

1807年(文化4年)

5月17日に鯵ヶ沢の商人、菊屋善左衛門が深浦沖で外国船を見たと、鯵ヶ沢の町奉行所に報告しました。最初は4隻の船がいると思ったのですが、よく見ると柱4本に帆をかけた外国船だったというのですから、大きな船だったのでしょう。この船は翌日には鯵ヶ沢沖でも目撃されました。

この報告を受けて、弘前藩では、青森・油川・平舘・鯵ヶ沢・深浦・十三に各一隊を派遣し沿岸警備にあたらせた。また、この事件をきっかけに、いち早く通報できるように、狼煙台を置くことになり、砲台も建設されることになりました。

1834年(天保5年)

6月13日、袰月にアメリカ船がきて乗組員が上陸する事件がありました。このとき、三厩にあった藩の警備陣屋の対応が弱腰であったとして、責任者が減俸隠居の処分を受けています。

1847年(弘化4年)

3月、アメリカの捕鯨船が平舘沖に停泊し、8人の乗組員が上陸しました。身振りで、帆船なので、風がなくて泊まっていると説明し、食料をほしいと申し出ました。

藩の役人は、星条旗をみて星を雁だと思って、雁が24羽位と記録しています。握り飯と糠漬けの大根と酒を出したところ、何のためらいもなく喜んで食べたと記録されています。この船の人達は友好的だったようです。

1848年(弘化5年)

3月、外国船が三厩沖に現れて17人が上陸してきました。村人は怖れて山へ逃げ、知らせを受けた弘前藩では藩兵をだしましたが、外国船は立ち去ったあとで交戦にはなりませんでした。

このときの模様は、鯵ヶ沢の神官の記録「永宝日記」に次のように記されています。

「唐人に食い物は鯨、生さかな、色々、船に積み置き候よし。さて、かの者、徳利のような物より酒のような物を出し飲み、日本人へも飲ませ候ところ、何の味なく、水のようにて。いも沢山食い候、日本の酒を飲ませ候ところ、半茶碗17人にて少々ずつ飲み候より。なんの訳にて参り候や、一切分り申さず候。」

村人は山に逃げたそうですが、この日記によると、近くで目撃している人もいるようですし、外国の酒を飲んだり、日本の酒を飲ませたりしたのですから、一緒に酒盛りをした人がいるようです。

嘉永年間(1848年から1854年)に入ると、さらに外国船が増え、同3年(1851年)3月1日から7月4日までの間で津軽の近海を通過した外国船は37、8隻に及ぶと記録されています。

1855年(安政2年)

6月16日夕方、三厩沖に停泊した船から、小船に乗った5人が上陸しました。海岸で警備していた藩の役人は、筆談で問答しました。50人乗り組みのイギリス船であることが分り、彼らは魚や卵を求めてきましたが、役人はこの要請を断りました。

翌17日には、この船から竜飛崎などに16人が上陸し、目印を付けるなどして測量を始めました。この船は、19日、20日、21日と上陸して、草を取ったり、鳥を撃ったり、測量したりしてから去っていきました。

このときの弘前藩の方針は、相手を刺激せずに平穏にすませることであったようです。相手がすることを見守るだけでした。食料などの要求には応じませんでした。

1860年(万延元年)

9月26日11時ころ、鯵ヶ沢沖一里半位の場所に外国船が停泊しました。鯵ヶ沢町奉行の齋藤熊蔵は、臆しているように見えてはいけないと、町方に平常と変わったことなく商売するように指示するとともに、漁師達が見物のために船を出すことを禁止しました。

27日になっても動きがないので、奉行所から出向くことにしました。たまたま鯵ヶ沢では異国船に雇われた経験がある卯之吉というものが、箱館から帰ってきていました。同心の広瀬藤太郎がこの卯之吉を連れて漁船に乗り、沖合いに停泊している外国船に向かいました。

この接触で、この船は58人乗り組みのロシア商船で、武器は持っておらず、風向きが悪いので一時停泊していることがわかりました。

午後2時頃、ロシア船から小船が出て上陸してきました。ロシア人の申し出は、磯浜なので案内船を貸してほしいということと、水などがほしいということでした。

齋藤奉行は、原則として異国船に対する対応は箱館ですることになっているが、飲み水程度のことだから、難船とみなして差し遣わしてはどうかと藩に具申し、藩はおおむね奉行に任せると回答しました。

29日に、広瀬同心が船に向かい、出帆を催促するとともに、水を三石、流木を十本、それに大根を与えたところ大いに喜んでいたそうです。この船は30日11時頃出帆し、この一件は無事終わりました。

まとめ

これらの対応をみると、外国艦隊と交戦した長州藩や薩摩藩と違い、弘前藩は終始穏便に対応する方針だったようです。打ち払うだけの武力を持っていないのでやむを得ない対応でした。

外国人と接する機会が少なかった時代ですから、外国船が現れるたびに、もの珍しさと不安から、上も下も大騒ぎしていたことでしょう。

ところが、藩のお達しをみると、見物に出るなというものが多いことから、山へ逃げたというのは間近に接近したときくらいで、通常は役人が遮っても見物人が押しかけるという状況だったようです。また、小泊の喜八というものが、こっそり異国船と商いをしたという記録もあり、庶民のたくましさがうかがえます。

参考文献
新釈青森縣史
鯵ヶ沢町史
岩崎村史
小泊村史


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