津軽の安東氏

安東氏の出自

青森県の歴史においては、江戸時代の大名である南部氏と津軽氏が注目されますが、南部と津軽に先行して安東氏という土着の豪族がいたことを省略するわけにはいきません。

平泉の藤原氏が滅亡してから、津軽地方を支配したのは、土着の豪族であった安東氏と鎌倉から派遣された曾我氏でした。

なお、資料によって安藤氏と書いているものもあります。時期によって使い分けがあるようでもありますが、ここでは安東氏に統一します。

安東氏は、前九年の役で滅んだ安部貞任の子孫だと言われています。これは多分に伝説的な伝承です。

藤崎城

安東氏のことは不確かなことも多いのですが、平安時代末期にはすでに津軽地方で一定の勢力をもっていたと言われています。

安東氏は、最初は今の藤崎町付近を拠点としていました。平川北岸に藤崎城を築いていました。

藤崎城

蝦夷管領

平泉の藤原氏が滅んだときに、安東氏は土着の豪族としては珍しく幕府の体制に潜りこむことができました。

鎌倉にいち早く恭順し、一族の安藤次(あんどうじ)が鎌倉軍の山案内をつとめたためとされています。

この功績で、源頼朝からこれまでの領地の支配権を認めてもらいました。

さらに、建保5年(1217年)、安東堯秀のとき、幕府から蝦夷管領に任命されました。

蝦夷管領は、当初は「蝦夷の沙汰」と言われていました。蝦夷地の支配を命じられたということになります。

蝦夷管領に任命されると、安東氏は岩木川の河口にある十三湊を支配していた十三秀栄を攻め滅しました。

なお、十三氏は平泉藤原氏の一族と言われています。後の戦国大名である津軽氏は、この十三氏の後裔であるとして藤原氏と称しました。

その後、安東氏はさらに勢力範囲を広げ、津軽にとどまらず、下北半島、北海道の渡島半島、秋田の土崎、秋田の檜山に及ぶ広い地域を支配下にしました。

安東氏の内紛

勢力範囲の拡大につれて、一族内部での争いが発生するようになりました。鎌倉時代末期に、安東の宗家では、安東季長(すえなが)と従兄弟の季久(すえひさ)の家督争いが起こりました。

鎌倉の北条高時は、蝦夷沙汰職を李久(宗李と改名)に与えましたが、李長は承服せず、内紛は長期に及びました。これを津軽大乱と言います。

南北朝時代

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が政権を掌握しました。建武の新政と言います。

当初、安東氏は建武政権の側に立って戦い、その功績により、所領を安堵されました。

その後、安東氏は、足利尊氏に仕え、建武3年(1336)正月、安東家李は足利尊氏から合戦奉行に任じられ、曽我氏などと共に南朝の支配地を攻めました。

南北朝の動乱が収束したときには、青森県の地域は、安東氏、北畠氏、南部氏が有力豪族でした。このうち北畠氏は南部氏の配下にあったので、実質的に安東氏と南部氏に二分されていたと言えます。

蝦夷地に逃れる

南部氏は、さらに勢力拡大を狙い、応永25年(1418)、南部守行は藤崎の安東氏を攻め藤崎城を落としました。

さらに、南部守行の子、南部義政のとき、嘉吉元年(1441)十三湊の安東盛季を攻め福島城を破り、さらに嘉吉3年(1443)、安東盛季が移った唐川城を破りました。

福島城

唐川城

安東盛季は小泊の柴崎城に移って抗戦しましたが支えきれず蝦夷地に逃れました。これにより十三湊の安東氏は津軽の西海岸を除く支配地を失います。

南部義政は、安東氏の支配地を直轄地にせず、浪岡の北畠氏に委ねました。

その後、捕虜にしていた安東政李を引き立てて安東氏の宗家を継がせ、各地の安東一族を懐柔しましたが、政李は蝦夷地に脱出します。

秋田に拠点を移す

安東氏は津軽を追われても一定の勢力を保っていました。

また、蝦夷地だけでなく秋田地方にも勢力をもっていました。その拠点は、今の秋田市土崎にあたる湊と檜山です。

蝦夷地に逃れた安東政季は檜山の安東氏にまねかれてその家を継ぎ、やがて湊安東氏を配下に組み込み、秋田氏となのる大名になりました。

江戸時代には三春藩主として存続し、明治維新を迎えました。

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