きりたんぽについて

きりたんぽを初めて食べたのはもう中年になったころでした。

秋田県のドライブインに入ったとき、壁にきりたんぽと貼ってあったので注文してみました。きりたんぽに味噌を付けて焼いたものでした。これは美味しいと感心したものです。

その後、大館市に行ったときに、美味しいという評判のお店に行ってきりたんぽ鍋を食べました。これも大したものだと思いました。

すっかりきりたんぽを気に入ってしまったのですが、以前は秋田県外で目にすることはあまりなくなかなか手に入りませんでした。ところが、近年は、わたしの地元のスーパーで売っているようになり、わが家でもきりたんぼ焼きやきりたんぽ鍋をやれるようになりました。

秋田の郷土料理ですが、江戸時代のころは青森県でも食べていたようなので、広い範囲で食べられていたものがしだいにすたれて、秋田の大館周辺に残ったのかもしれません。

江戸時代の旅行家菅江真澄が下北半島と今の白神山地で、いずれも山中の作業小屋で「山ばたらき」の人からごちそうになっています。

(下北半島の山奥で)山子(山稼ぎの男)らが二人、きつといって、木材をくりくぼめたもの(木櫃、図絵にはねまりうすといって低い臼が描かれている)に飯をいれ、細い杵でついて餅にし、たんぱやきといって、これを火の中にくべてやき、昼飯にといってくれた。
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政六年(一七九四年)二月四日の日記「奥のてぶり」より引用

(目屋の山奥で)たんぱやきという餅を作ろうと、木櫃に飯へらをつきたてて飯をねり、それを木の長い串にさし、あぶって味噌をつけて、「さあ、これをおあがりなさい」と二尺ばかりあるたんぱやきを差し出された。私は三、四寸ほど食べてやめたが、案内人も山男たちもそれを四、五尺ほどは食べたであろう。
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政八年(一七九六年)十一月一日の日記「雪のもろ滝」より引用

菅江真澄は奥のてぶりの中で「このようにして、無造作に米二升近く、一人が一日のうちに食うのは、世の中にくらべようもない力仕事をするためで、さもあろうと思われた。」とも書いています。

山で働く男たちは米飯を大量に食べていたのです。

これについて、「下北地方史話」富岡一郎著から引用します。

「このたんぱやきは、山仕事が官業事業となった明治以降、大正、昭和になってもまだつくられており、山下りするときの、子供への良いみやげだったという。(中略)さて、菅江真澄の日記には、杣夫たちが米飯を食べていたことが記されている。稗しかできなかった当時の下北地方で、大量の米が移入され、消費されていたのである。」「白米を竹筒に入れ病人の枕頭で振って、これが白米の音だよと言ったという話しや、紋日(もんび、祭や祝日)でなければ米飯は食べられなかったということとは、大分違う印象を受ける」

山仕事は、稼げる仕事だったのでしょう。里の人が稗飯を食べているときに、山の奥では米飯を腹いっぱい食べて、食べ残しをたんぱやきにして間食にしていたのです。


目次のページ青森あちこち余談>このページ


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: