羽州街道 弘前市代官町から藤崎町鹿島神社まで

先日和徳(わっとく)枡形で中断した羽州街道歩きを再開しました。和徳枡形を出発して藤崎宿まで、約4.6キロの道のりです。休まずに歩けば1時間の距離ですが寄り道しながらのんびりと2時間近くかけて歩いてきました。

県道260号堅田付近

青森県道260号を北上して国道7号の高架下を歩きます。和徳の枡形でいったん右に折れた羽州街道は、この辺りまでくれば県道260号に再合流しているはずです。

国道7号高架

高架をすぎてすぐ右手に撫牛子(ないじょうし)の八幡宮があります。

撫牛子八幡宮鳥居

さらに進んでいくと右手に大久保の神明宮があります。

大久保神明宮鳥居

撫牛子から百田(ももた)までの道路は直線が続いているので旧街道らしさがありませんが、明治以降、拡幅工事に伴って直線的に整備されたものと思われます。この写真は津賀野バス停付近からの岩木山です。

岩木山

津賀野バス停を過ぎるとまもなく百田です。百田で国道7号に合流して平川にかかる平川橋を渡って藤崎町に入ります。

現在の平川橋の位置と同じ場所ではありませんが江戸時代にも橋が架かっていました。

菅江真澄 津軽の奥(二)より
「堅田、撫牛子、大久保を経て、津軽野の村に出るころ、雪が降り出した。百田という部落があった。むかし、舟で渡った平賀川も、歩行者のために、冬はこのように橋をかけわたしたということである。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政七年(一七九五年)十一月二十四日の日記より引用

今日は227年前に菅江真澄が歩いた道と同じ道を歩いたことになります。

別の紀行文で菅江真澄は平川(平賀川あるいは藤崎川と記しています)を舟で渡ったと書いています。

菅江真澄 津軽のをちより
「このあたりを、すべてむかしは津軽野というと聞いたが、今は田となり、家が建ったりしてしまったが、そこをつかの村とよんで、その面影ばかりがわずかにのこっている。名高い萩も草にへだてられて、いまは生えているようには、すこしも思えなかった。藤崎川の水はふかく、綱舟をくり寄せたのに乗ろうとするとき、にわか雨がはげしく降ってきたので、人々はみなとびのった。こうして、まだ日の高いうちに藤崎について・・・」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政九年(一七九七年)五月二十六日の日記より引用

平川にかかる平川橋

今の青森方面は直進ですが、羽州街道は橋を渡ってすぐに左折します。藤崎の表町の通りではなく一本平川寄りの道路です。藤崎の中心部に入る道が直進できないように枡形になっていたなごりです。この先は道なりに進み途中で右折して県道339号に出て板柳方面に進みます。

左手に東奥信用金庫藤崎支店があります。ここに藤崎城本丸郭跡地の標柱が建っています。標柱には「藤崎城は寛治六年(1092)に安東氏によって築城され、別名白鳥城とも呼ばれた。現在の藤崎町市街地のほぼ全域にわたる広大な規模の平城であるこの地は後期藤崎城の本丸郭跡地であり、この一郭の排水路(旧銅屋盛堰)は堀跡の痕跡をとどめている。」と書いてあります。

藤崎城標柱

さらに進むと右手に青森銀行藤崎支店が見えてきます。青森銀行の角を右折して県道131号に入ります。この辺りから藤崎宿の中心部です。

青森銀行藤崎支店

少し行くと鹿島神社が見えてきます。江戸時代は鹿島神社の前に馬継所があり今でも伝馬という地名が通称として残っています。また、弘前藩の代官所があり、跡地に標柱が建っています。

鹿島神社

羽州街道はこの先旧常盤村を経由して浪岡宿に向います。

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