福島城跡から国道339号を少し北上、山王坊遺跡入り口の手前に、オセドウ遺跡という貝塚遺跡があります。オセドウというのは、オイセドウ、お伊勢堂です。
道ばたにこんな看板が立っています。カタカナの脇に、漢字で「於瀬洞」遺跡公園と書いてあります。

せまいですが車をとめるスペースがあったので、車をおいて看板脇から上ってみました。

上は平坦で四阿もあるちょっとした公園になっています。オセドウ遺跡の案内板があります。
「オセドウ遺跡 大正十二年、「オセドウ貝塚人」人骨発見。縄文時代から歴史時代に続く遺構。安倍安東(藤)氏、福島城の北端を占め海民山民の守護神大山祇神を奉祀していた聖地」と書いてあります。
ここはオセドウ貝塚といわれる縄文遺跡があります。大正10年に道路の工事中に発見されました。出土した土器はその後「円筒土器」と名付けられました。大正12年に完全な人骨も発見されました。

木々の間に何か建物が見えます。

行ってみると神社の社殿でした。

ここは、神明宮の境内でもありました。
いったん参道をおりてあらためて参拝することにしました。



虫です。


江戸時代の紀行家菅江真澄が津軽に滞在していたとき、森田村(つがる市)で虫送りをみています。
「六日 (中略)むしおくり をするというので、人の形代や、むしのかたしろをたくさんつくって持ち、いろいろな紙の幡を風になびかせ、太鼓、笛、かね、ほら貝を吹き、ねりあるいてさわぎ、戯れ、舞いながら、あちこちの田の面をめぐっている。そしてしまいには、つるぎや太刀できりはらうまねもするということである。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 外浜奇勝 寛政八年(一七九六年)七月六日の日記より引用
さらに上ります。

神明宮の社殿につきました。



菅江真澄が相内で宿泊してます。この文にある「神明の社」がここ相内神明宮だと思われます。
「今泉という村にくると、山路にゆく道があり、また潟辺へゆく道もあった。この潟ぞいの涼しい道をつたってゆくと、水面上に遠く岩木山が巻き貝のような形に眺められる。ななひらの山の麓もすぎて、中山もとおり、赤坂をくだった。南方に大野という広い野があり、そこに誰であったか、すんでいたというふるい城柵のあとがあった。神明の社のある林に幣をとり、橋をわたれば相内の里(市浦村)になって、三輪某という酒屋のもとに宿をかりた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 外浜奇勝 寛政八年(一七九六年)六月二十二日の日記より引用