津軽藩の蝦夷地警備

蝦夷地警備

1647年(三代将軍徳川家光公の時代)にロシアが大陸の端まで到達しました。これ以後、日本はロシアからしばしば北方の領土を脅かされることになります。

1792年(寛政4年)ロシアの使節、アダム・ラックスマンが、難破してロシアに渡っていた光太夫ら3名を連れて根室にきて、通商を求めました。

こうしたことから、幕府は蝦夷地管理の重要性を認識し、寛政11年(1799年)には、幕府直轄地を拡大するとともに、東北諸藩に蝦夷地警備の軍役を課しました。

東北諸藩から派兵された部隊は、現在の北海道だけでなく、サハリンや南千島にまで展開していました。現在ロシアの占領下にある択捉(エトロフ)島には、津軽藩と南部藩を主力とする守備隊が常駐していました。

文化4年(1807年)、択捉島にロシア兵が上陸して、守備隊を攻撃してきました。ロシア兵はわずか16人か17人だったといいますが、約300人の日本兵はわずか一日の戦闘で潰走してしまいました。幕府は、軍事力の差に大きな衝撃を受けました。エトロフ事件といいます。

中川五郎治

このエトロフ事件のとき、下北郡川内町(青森県)出身の小針屋五郎治(おばりやごろうじ)という商人がロシアに捕らえられて6年もの間抑留されました。

しかし、五郎治は勉強家で、抑留中にロシア語を取得しただけでなく、種痘の技術などのヨーロッパ文明の吸収に努めました。帰国後、中川と改姓した五郎治は、松前藩で種痘を施し天然痘の流行をくい止めました。日本における種痘は蘭方医の大槻俊斎が初めて行ったといわれていますが、松前藩の記録どおりであれば五郎治の方が日本人初となります。

斜里の津軽藩兵

エトロフ島事件などをきっかけに、北方領土への危機感を持った幕府は、文化4年(1807年)、蝦夷地全域を幕府の直轄地にするとともに、東北の諸藩に本格的な出兵を命じました。このとき、津軽藩からの渡海者は1002名に及ぶと記録されています。

この年は、約600名の津軽藩士が北海道各地で越冬しました。内訳は宗谷230名、松前150名、江刺100名、エトロフ23名、斜里100名でした。

寒さに慣れていたはずの津軽藩士にとっても、蝦夷地の冬は過酷で、浮腫病などで多くの犠牲者をだしました。浮腫病というのは、栄養不足や寒気などによって体がむくんで衰弱する病気だそうです。特に斜里(網走の東方、現斜里町)駐屯の津軽藩士は、100名の越冬隊のうち無事故郷に戻れたのは、わずか15名だけといわれています。現在、弘前市と北海道の斜里町が友好都市として交流しているのは、この事件に由来するものです。

越冬対策

文化4年以降も毎年、蝦夷地警備の軍役がありました。文化7年に津軽藩は野犬狩りを行って、毛皮を派遣隊に持たせたといいます。これは悲惨な結果に終わった文化4年の教訓を生かした、装備改善の一環でした。

東北諸藩が多くの兵を送って蝦夷地の防備を固めたこの時期には、ロシアの進攻は一旦途止まりました。ヨーロッパでクリミア戦争が始まり、余裕がなくなったためでした。

このため、文政4年(1821年)に幕府は蝦夷地を松前藩に任せることにし、各藩は軍役を解かれました。

しかし、アメリカのペリーが開国を迫り、日米和親条約により下田とともに函館が開港されることになった、安政2年(1855年)に幕府は再び蝦夷地を直轄とし、東北の諸藩は再び蝦夷地警備の軍役を課せられました。

この時期の装備は以前と比べてだいぶ改善されていました。ガラス窓などを導入した機密性の高い住居、ストーブ、保存食料、毛布、コーヒーなどが支給されたという記録があります。幕府の函館奉行所が新技術の導入に尽力したそうです。

日本初のストーブ

ちなみに、ストーブは、函館奉行所調役下役元締の梨本弥五郎という人が、イギリス船で見たストーブをスケッチし、その絵を函館の鍛冶屋に見せて作らせたのが国産の第一号だそうです。宗谷の景蔵というアイヌの若者に作らせたという説もあります。

コーヒー

コーヒーは浮腫病対策の薬品として支給されました。函館奉行所ではコーヒーの淹れ方の説明書を作成しています。「黒くなるまで炒って、細かくつき砕き、二さじほどを麻袋にいれて、熱湯で番茶のような色にふりだし、砂糖を加えて用いる」などと書かれていました。

コーヒーは18世紀には長崎に出入りしていたオランダの商人から日本に入ってきました。長崎通詞(通訳)など一部の人達には人気の飲み物だったようですが、民間に普及するようなことはなかったようです。広く愛好されるようになったのは、この時以来だろうといわれています。

おわりに

蝦夷地へ派遣された人達は、藩士だけでなく徴用された農民なども含まれていました。そのため、長期間に渡る派兵で、藩の財政が圧迫されただけでなく、藩民にも大きな犠牲を強いました。

しかし、この時の東北各藩の必死の努力が、ロシアの南下に対して北海道を守りきったのです。

参考文献
新釈青森県史 尾崎竹四郎著
北海道の歴史 榎本守恵著


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