椿神社 平内町

大島から、海岸沿いの道(県道9号)を走ると、椿(つばき)神社の社標がみえます。これを見落としてもすぐ先に赤い橋があるので神社だとわかります。

社標

海岸の反対側に大きな駐車場があります。そこに車を停めて神社に向かいました。まっすぐに参道がのびています。

鳥居

椿神社の拝殿です。

菅江真澄 津軽の奥より
「田沢の浦の村からしばらく行って、道を離れて崖を下ると、波の寄せる岸べからほんのわずかばかり遠ざかった磯山に、年を経た椿がびっしりと生い茂っていた。(中略)きょうの空はのどかに霞んで、朝なぎに、たくさんの椿が咲いた景色は、有名な巨瀬(奈良の古くからの椿の名所、巨勢)の春野のたま椿も、とうてい及ばないであろうと思った。あちらこちら、散った花を拾い、それを吸って遊ぶ子供らを友として、わたしもわけめぐり、わけいり、小川の流れの岸にある椿明神という祠にぬかずいた」
続く

椿神社

拝殿の社額。

社額

本殿です。本殿のうしろはうっそうとした森です。

本殿

境内の椿。

椿

続き
「神社の縁起は、むかし、文治のはじめころ(一一八五ごろ)とかいう。この浦に美しい娘がいたが、他国の船頭で、毎年来てこの浦々から宮木を伐り積んでいく男と契り、末は夫婦になろうとなれ親しんでいた。その船頭が帰国するおりに、女がいった。都の人はいつも椿の油というものをぬって、髪の色もきよらかにつやつやとひかり、椿の葉のようにつやがあると聞いています。こんな賤しい漁師の娘でも、櫛をとるとき、すこしぬってみたい。わたしにふさわしいものならば、来年のみやげに椿の未を持ってきてください。絞ってぬりましょう。となごりを惜しみ、泣いて別れた。年が明けると、この船頭が来るのを一月から十二月まで待ちつづけたが、願いはむなしく船は来なかったので、つぎの年も春から一年待ちこがれた。どうしたわけか、続いて二年ばかり船頭が来ないので、娘は、この男はほかの女に心をひかれたのではないかと、約束にそむいた男を深く恨んで、海にはいって死んでしまった。その女の死体が波で寄せられてきたのを、浦人たちは泣き悲しみながら横峰というところに埋めて、塚のしるしに木を植えて亡きあとをとぶらった。ちょうどその時、かの船頭が三年を経てここに漕ぎつけ、やむをえない仕事に従っていて、二、三年も航海することができなかったが、かの娘は無事でしょうか。と尋ねた。(中略)苔の上に額をあてて、生きている人にものを言うように後悔のことばをいくたびも告げ、持ってきた椿の実を女の塚のまわりにまいた。(中略)その椿が残りなく生いでて林となり、ことにみごとに花の咲いた枝を人が折りとると、清らかな女があらわれて、この花を折ってはいけないと、ひどく惜しんだので、漁師も山仕事をするものもみな恐れて、女の亡き霊を神にまつったのであるという」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政七年(一七九五年)三月二十六日の日記より引用

社殿の場所は少し高いところなので、海方向の景色がきれいです。

掲示されていた椿神社の沿革によれば、1185年頃椿山にまつわる伝説があって、その後、椿崎大明神 → 椿大明神 → 椿宮女人と御祭神が変遷し、明治6年に猿田彦大神になって今に至っているようです。椿神社という今の名前になったのは、安永二年(1773)。

ここは、内田康夫さんの「夏泊殺人岬」に登場する神社です。 宮司の娘(あくまでも小説のなかの話です)が主人公です。わたしは小説を読んで椿神社を知り、でかけていった一人でした。今回は2度目の参拝です。

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