概略
縄文時代
縄文時代、今の青森県地方には多くの人が住んでいました。県内ほとんどの地域に縄文遺跡が残っています。
弥生時代
今の青森県地方は弥生時代の早いうちから稲作が行われてました。田舎館村の垂柳遺跡などで水田の跡が見つかっています。
大和朝廷の北進
西に大和朝廷が成立したころ、現在の青森県地域には蝦夷(えみし)と呼ばれた人たちが住んでいました。蝦夷というのは人種を意味する言葉ではなく、朝廷の支配に服属していない辺境の人びとをさす言葉でした。ほとんどの蝦夷は縄文人の末裔と考えられています。
大和朝廷は徐々に北上し、現在の宮城県多賀城に陸奥国府を置き、現在の東北地方を支配していましたが、現在の青森県地域には大和朝廷の支配が及んでいなかったと考えられています。
平泉の藤原氏
平安時代後期になると帰順していた蝦夷の安倍氏が今の岩手県と青森県の地域で覇権を握りましたが前九年の役で滅びました。その後、出羽の蝦夷である清原氏も後三年の役で滅び、最後に平泉の藤原氏が東北地方の覇権をにぎりました。
青森県地方は藤原氏の支配の下で、いくつかの地方豪族が存在していました。津軽地方には、藤崎を拠点とする安東氏がいました。
文治5年(1189)、鎌倉の源頼朝の軍勢に攻められて平泉の藤原氏は滅亡しました。
鎌倉時代
平泉の藤原氏の支配地には鎌倉幕府から御家人が奉行や地頭として派遣されました。
まもなく、津軽地方は幕府執権の北条氏の領地になりました。これを得宗領といいます。得宗の代官として曽我氏・平氏・片穂氏・安東氏・工藤氏・結城氏などが、それぞれ「館」を構えて領国の支配を行いました。
青森県の代表的姓である、工藤、佐々木、三上、成田、福士、神、小笠原、岩間、桜庭、三浦、葛西、斎藤の人達は、この時期に関東などからやってきたと言われています。
地頭達のなかで有力な勢力をもったのは、南部地方の南部氏、津軽地方の曽我氏と工藤氏、そして、津軽のうち岩木川流域と西海岸、外ヶ浜、下北を支配した安東氏でした。
室町時代
南北朝時代を経て室町時代には、八戸と三戸を主要拠点とする南部氏が津軽地方に勢力を広げ、曽我氏、工藤氏、安東氏を圧倒し、津軽の支配拠点として石川に一族を置き、浪岡に北畠氏を置きました。
戦国時代
戦国時代に入り、石川南部氏の配下にいた大浦氏が反乱をおこし石川城、浪岡城、その他の南部氏の居城を落とし、津軽一円を支配しました。大浦氏は津軽氏と改姓しました。
江戸時代
豊臣秀吉によって各大名の領地が確定し、青森県地方の東半分が盛岡の南部氏、西半分は弘前の津軽氏が支配することになり、その構図は江戸時代を通じて変わりませんでした。
江戸時代には参勤交代のために街道が整備されました。街道の整備に伴い人と物資の動きが活発になりました。
戊辰戦争
1868年(慶応4年)に徳川幕府と薩摩や長州を主力とする反幕府勢力との間で内戦が勃発しました。これを戊辰戦争といいます。このとき、奥羽越後の諸藩は会津藩救済を目的とした奥羽越列藩同盟を結び、薩長勢力に対抗しました。
青森県地域を領国にしていた弘前藩、盛岡藩も奥羽越列藩同盟に参加しました。
しかし、同年7月、弘前藩は同盟を離脱しました。
同年9月23日、弘前藩が南部藩の領地である野辺地に侵攻しましたが反撃され撤退しました。
戊辰戦争が終り、敗北した会津藩は旧領を没収され、南部藩の一部地域(今の三戸郡、下北郡、上北郡など)に領地を与えられて移住してきました。斗南藩といいます。
青森県の誕生
明治4年7月14日、廃藩置県で各藩が県になりました。
弘前藩→弘前県
黒石藩→黒石県
八戸藩→八戸県
七戸藩→七戸県
斗南藩→斗南県
館藩→館県(旧松前藩の地域、明治5年9月20日、北海道開拓使に移管)
同9月4日、6県が合同して弘前県になりました。
同9月23日、青森県と改称しました。
異なる藩が合同したため、それぞれに歴史と文化の違いがあり、しばらくの間は一体感を持ちにくかったと言われています。特に南部藩と津軽藩の関係は微妙でした。
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参考文献
新釈青森縣史 尾崎竹四郎著 東奥日報社発行
青森県の歴史 小口雅史他著 山川出版社発行
宇曽利百話 笹澤魯羊著 下北郷土会発行
南部と津軽の争乱 名久井貞美著 伊吉書院発行
根城ものがたり 正部家種康著 デーリー東北新聞社発行
斗南藩史 葛西富夫著 斗南会津会発行
論点あきた史 新野直吉著 秋田魁新報社発行
北海道の歴史 榎本守恵著 北海道新聞社発行
概説松前の歴史 松前町町史編集室編 松前町発行
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