弘前市文化センター前にある津軽為信(つがる ためのぶ)像です。津軽為信公は戦国時代の武将で、弘前藩の初代藩主です。
かつては弘前城本丸にあったのだそうです。
為信像の歴史
明治39年の藩祖三百年祭の記念事業として、市民の募金を集めて、藩祖津軽為信公の銅像を建立することになった。
制作にあたったのは、高村光雲の弟子で、山崎朝雲。
あご鬚が長く垂れていたので「髭殿」と呼ばれた為信公の顔は長勝寺にある木像を手本に、具足などは高照神社に残っていたものが参考になった。具足を着けて、右手に軍扇、左手に太刀を持った立ち姿である。
完成し、弘前城本丸に設置されたのは明治42年1月。
戦時中の昭和19年、金属供出のため無くなりました。
平成16年、弘前市出身の彫刻家、古川武治・武彦父子の制作による復元銅像が、弘前城近くの市民文化センター前の広場に建立された。
津軽為信の戦績
津軽藩の祖、津軽為信(ためのぶ)は、津軽を統一した初代の殿様ということで、弘前の人に人気がある戦国武将です。
為信の系譜
為信の先祖については、いくつかの説があります。大きくわければ、藤原氏説と源氏(南部氏)説です。今回は源氏説で紹介します。
津軽為信の先祖で、津軽入りした初代は南部一族で久慈地方(岩手県)にいた久慈光信でした。光信は種里(現鰺ヶ沢町)に入りました。現在はその城跡に資料館(光信公の館)があります。
その後、光信の子の盛信が岩木山の反対側の大浦(弘前市岩木)に城を築いて津軽平野に進出していきました。大浦にきてからは大浦氏となのるようになりました。
津軽為信もはじめは大浦為信でした。為信は、光信を初代とすると、5代目にあたります。
その為信のときに、大浦氏は堀越城(弘前市)に拠点を移しました。文禄3年(1594年)のことです。岩木山のふもとから、さらに一歩、津軽平野に進出したのです。
弘前城は二代藩主が築城したので、初代の為信は弘前城に入ったことはなく、堀越城を居城にしていました。
為信の戦績
以下に、為信の戦績を年代順に示します。生涯戦い続け、次々と周辺の城や館を落城させ、勢力を拡大していったことがわかります。
元亀2年(1571年)為信21歳、石川城攻略
石川城は弘前市石川にありました。南部氏の一族、南部高信の居城で、津軽地方における南部氏の拠点でした。
元亀2年(1571年)為信21歳、和徳城攻略
和徳城は弘前市和徳にありました。南部氏の家臣、小山内氏の居城でした。
天正4年(1576年)為信26歳、大光寺城攻略
大光寺城は南津軽郡平賀町にありました。南部氏の津軽郡代、滝本氏の居城でした。
天正6年(1578年)為信28歳、浪岡城攻略
浪岡城は青森市浪岡にありました。北畠氏の居城でした。北畠氏は南北朝時代に南朝の忠臣として活躍した北畠顕家(あきいえ)の末裔です。
天正13年(1585年)為信35歳、油川城攻略
油川城は青森市油川にありました。南部氏の家臣、奥瀬氏の居城でした。
天正13年(1585年)為信35歳、横内城攻略
横内城は青森市横内にありました。南部氏の一族、堤氏の居城でした。
天正13年(1585年)為信35歳、蓬田城攻略
蓬田城は東津軽郡蓬田村にありました。油川城の奥瀬氏の配下、相馬氏の居城でした。
天正15年(1587年)為信37歳、豊臣秀吉の領国安堵
為信は豊臣秀吉に接見することができ、領土を保証されました。
天正16年(1588年)為信38歳、飯詰高館城攻略
高館城は五所川原市飯詰にありました。浪岡城の北畠氏の配下、朝日氏の居城でした。
慶長2年(1597年)為信47歳、浅瀬石城攻略
浅瀬石城は黒石市浅瀬石にありました。南部氏の家臣、千徳(せんとく)氏の居城でした。
三戸の南部宗家の内紛に乗じて、津軽為信は着々と周辺を制圧し、やがて津軽一円から南部氏の勢力を駆逐していくのです。
為信は津軽平定後は南部氏の本拠地三戸に攻め込むつもりだったと私は思っています。津軽の独立を南部が認めるはずがなく、いずれは南部の本隊が攻めてくる可能性があったからです。
しかし、為信は時代の流れを読み、南部との決戦を避け、絶大な権力者である豊臣秀吉から領土を保証してもらうという、政治的勝利により決着をつけました。武に秀でただけでなく、政治手腕も兼ね備えた戦国武将だったといえます。
目次のページ>公園・名所旧跡・その他景勝地>このページ