菅江真澄が聞いた湯
江戸時代の紀行家菅江真澄が浅虫温泉で尋ねています。
「ここでは湯けたの数はどれほどあろうか」と言うと、「湯ぶねのここほど多いところはない。とりわけこの津軽というところは温泉の数がたいそう多い。」と答えた。どこと何処にと尋ねると、「ご存知のように、関の湯の沢、碇が関の湯、大鰐、蔵館、岳、湯谷(湯段)、切明(平賀)、酸か湯、下湯(青森)、温湯、板留、要目(黒石)、沖浦(黒石)、二升内、大河原、田代、根子(平舘)、猿(深浦)、笹内(岩崎)、追良瀬山(深浦)、そしてこの淺虫です。またわかし湯という冷泉が方々にあります。川水が流れこんでいるので、それを汲んでわかしているのです。そのところは、今別の近くの湯の沢、金木の川倉、尾別内の湯(中里)、浪岡のほとりにある本郷の湯、戸門の湯などです。」と語った。
(東洋文庫版 菅江真澄遊覧記2 外が浜づたひ 天明八年(一七八八年)七月六日の日記より引用)
ここにあげられた温泉のなかに知らない名前がいくつかあったので、これらの温泉が今どうなっているか調べてみました。
関の湯の沢
関の湯の沢は、平川市碇ヶ関(旧碇ヶ関村)にある湯の沢温泉のことです。湯の沢温泉は、湯の沢山荘でわの湯、なりや旅館、秋元旅館の3軒の旅館が営業していましたが、次々と廃業し、2012年9月末の秋元旅館の廃業で温泉宿がなくなってしまいました。
碇が関の湯
平川市碇ヶ関(旧碇ヶ関村)はかつて多くの温泉宿がありました。現在、碇ヶ関の中心部には日帰り温泉施設の碇ヶ関温泉会館があります。
大鰐
大鰐温泉は現在も多くの温泉宿が営業しています。
蔵館
蔵館温泉は大鰐温泉と一つになりました。1954(昭和29)年の合併までは、平川を挟んで北側が蔵館村、南側が大鰐町でした。合併後は併せて大鰐温泉と称しています。
岳
嶽温泉は、弘前市常盤野湯の沢にある岩木山の麓の温泉郷です。
菅江真澄は外浜奇勝で次のように岳の湯を紹介しています。「だけという温泉の部落にはいった。近年までこの湯は山奥のかげにあったのを、ここにうつして、だけ温泉とはいま、この野をいっている。あらためて浴場をつくり、温冷、ふたつの湯ぶねはかけ樋によってはるばると湯をひいて、ここに病人があつまってきた」(東洋文庫「菅江真澄遊覧記3」292pより引用)
湯谷
遊覧記では湯谷(ゆだに)と書いていますが、青森県弘前市常盤野にある湯段(ゆだん)温泉のことです。
菅江真澄は外浜奇勝で次のように湯段の湯を紹介しています。「だけの湯の部落をたって、湯谷のいで湯に行った。この道のかたわらに、ちょうど赤土のような湯の渋がながれかかって、田井のようなところがあった。この土を馬が好んで食べる。」(東洋文庫「菅江真澄遊覧記3」293pより引用)湯段温泉は塩分が多いので、湯の塩分を含んだ土を馬が食べていたということです。
切明
青森県平川市切明には、切明温泉共同浴場があります。また、切明津根川森には温川山荘温泉という旅館があります。
酸か湯
酸ヶ湯温泉は青森県内トップクラスの人気温泉です。客室140室(うち90室が湯治部)の大きな旅館です。総ヒバ造りの千人風呂が有名です。
下湯
下湯(青森)温泉は、下湯ダム建設により廃湯になりました。ネット情報によれば温泉はまだ湧出しているそうです。
温湯
温湯温泉としてとして存続しています。
板留
板留温泉として存続しています。
要目
要目集落が浅瀬石川ダム建設で廃村になったときに廃湯になりましたが、ネット情報によれば集落の共同浴場が廃屋になりかけながら存続しているようです。
沖浦
黒石市沖浦にあった沖浦の湯は浅瀬石川ダム建設により水没しました。
二升内
黒石市二升内にあった二升内の湯は浅瀬石川ダム建設により水没しました。
大川原
大河原には、大川原温泉会館「ふくじゅ草」という共同浴場があります。
田代
田代の湯は、青森市駒込の山中にあった温泉です。田代元湯と新湯がありました。田代元湯には最盛期は六軒の旅館があったそうですが、最後まで営業していた「やまだ館」が1995年に廃業しました。新湯もだいぶ前から営業していません。
ネット情報によると湯が湧出しかつての湯船も一部残っているらしいので秘湯として訪れる人も少数いるようですが、途中の吊橋が壊れているようなので極めて危険だと思います。工事中の駒込ダムが完成すれば水没するという情報もあります。
根子
根子の湯は、外ヶ浜町平舘の平舘不老ふ死温泉として存続しています。深浦町にある不老ふ死温泉とは別の温泉です。
猿
猿の湯は現在は温泉として利用されていません。南股沢の上流、深浦字南股に跡が残っているようです。
菅江真澄は外浜奇勝で笹内の湯の紹介に続いて「その(笹内の湯)東の山奥ふかいところに、むかし猿が入浴したといわれて、いま猿の湯とよばれる温泉があるので、人々がわけ入るという」と書いています。(東洋文庫「菅江真澄遊覧記3」217pより引用)真澄が近くにきたのは寛政八年(1796)です。
笹内
笹内温泉は深浦町岩崎の笹内川上流にあった温泉です。旅館がありましたが1972年の水害で廃業したそうです。
菅江真澄は外浜奇勝で次のように笹内の湯を紹介しています。「(岩崎を)出発した。津鼻をすこし越えると、浜中という部落があった。笹内川という小川が流れている。(中略)なおさかのぼっていくと、帆立沢といって、ここから大きな帆立貝の形をした石が掘りだされるので、こういう。(中略)ここに温泉がある。なお深くわけ入れば、根瀬という山奥に笹内の湯がある」(東洋文庫「菅江真澄遊覧記3」217pより引用)
追良瀬山
追良瀬山は深浦町大字追良瀬字初瀬山にあった追良瀬温泉のことだと思われます。現在は温泉として利用されていません。
淺虫
浅虫温泉として存続しています。
今別の近くの湯の沢
外ヶ浜町平舘に「湯の沢温泉 ちゃぽらっと」という入浴施設があります。今別町ではありませんが、「今別の近く」というのでこの温泉だと思われます。
川倉
五所川原市金木町川倉に、金木中央老人福祉センター(川倉の湯っこ)があります。老人福祉センターですが浴場は誰でも入浴できます。
菅江真澄は外浜奇勝で次のように川倉の湯を紹介しています。「十九日(中略)朝からの暑さにたえず、ひたすら湯浴みをして、川倉にきて日が暮れた。二十日(中略)きょうも、あの野天の湯ぶねで入浴していた。」(東洋文庫「菅江真澄遊覧記3」197pより引用)
尾別内の湯
中泊町に尾別という地名があります。中泊町発行の「中泊町史跡・文化財マップ」に「尾別薬師堂は、かつて存在した鉱泉「 薬師湯 」に勧請された薬師堂。嘉永元年(1848)奉納の俳句額が掲げられていた。」とあります。この「薬師湯」が「尾別内の湯」にあたると思われます。
菅江真澄は尾別を歩いています(外浜奇勝)が、薬師湯や薬師堂については書いていません「尾別村にたっている観世音の御堂のまえを過ぎるころ、ほととぎすがここに鳴き」(東洋文庫「菅江真澄遊覧記3」108pより引用)
本郷の湯
浪岡のほとりにある本郷の湯とあります。青森市浪岡本郷のことだと思われますが地図で見つけることができません。昭和12年(1937)5月6日の東奥日報に本郷の鈴蘭山の記事が掲載されていて、「感傷の乙女を誘ふ 谷間の姫百合 湯の沢温泉も近い」という見出しがあります。この「湯の沢温泉」がそうかもしれません。
戸門の湯
現在、青森市戸門に温泉がありません。戸門のとなりの鶴ヶ坂は古くは湯治場だったので、浅虫の人は鶴ヶ坂の湯を戸門の湯と言ったのかもしれませんが、わかりません。