青森あちこち

優婆寺 むつ市正津川

優婆(うば)寺はむつ市の旧大畑町正津川(しょうづがわ)にあるお寺です。

山門

境内にある「優婆寺縁起」には、「村人がお堂を建てて奪衣婆の仏像を祀ったのが優婆寺の始まりである。奪衣婆のことを優婆尊とも呼ぶことから優婆寺という寺名になった。」と書いてあります。

本堂

恐山にあった奪衣婆(だついば)の像が、洪水で流されて、この地に「流れ着くこと三度続き」四度目にお堂を建てたとも書いてあります。

私が以前聞いた話は、何度も流れ着いたというのは同じですが、流れ着いた奪衣婆に、村人がなぜ何度も流れてくるのかと尋ねたところ、人の衣類をはぐという自分の仕事が嫌になったのでここに流れてきた、これからは優しい婆になりたいのでかえさないでくれ、と言ったのでお堂を建ててその像を祀るようになった。というものでした。伝説なのでいろいろなバリエーションがあるのだと思います。

今、恐山にはむつ市田名部から登りますが、古い時代にはく正津川から登ることも多かったと言われています。いろいろな史料に優婆寺は恐山参拝者の禊(みそぎ)所だったという記事がみえます。

ところで、先の縁起には「奪衣婆のことを優婆尊とも呼ぶ」と書いてありました。

優婆尊(うばそん=うばさま)は、安産・子育て祈願の対象として信仰されています。

奪衣婆は、優婆尊のような優しい仏ではなく、人が死ぬと三途川のほとりで待っていて、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた死者の衣服を剥ぎ取ると言われている鬼のような老女です。

天と地ほども違う優婆尊と奪衣婆ですが、縁起にあるようにが同一視されることが多いようです。なぜ同一視されるかについては、いくつか資料を読んでみたのですがよく分かりませんでした。

江戸時代の紀行家菅江真澄もこの地を訪れています。

菅江真澄 牧の冬枯より
「正津川という村に小川があった。この水上は恐山の湖からでる流れで、その古い名は三途川といい、慈覚大師の作られた姥の像があったのが、洪水のために山上から流れでたので、そのままこの村に堂をたててあがめている」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政四年(一七九二年)十月二十二日の日記より引用

「道もない方向へ雪をしとしとと踏みちらして行くと、平等庵といって、七尺の地蔵を中尊にたてた左のすみに、たけ二尺ばかりの優婆の像が、あたかも生きているように立ち、これに黒い麻の衣がかけられてあった。彼方に大きな庵があり、以前はそこにおかれていたのであるが、荒れはてたので、近いころ、ここのお堂にすえ奉ったという」寛政四年(一七九二年)十二月十三日の日記より引用

菅江真澄が訪れた時は平等庵にある小さなお堂だったようです。真澄が寺名を書き漏らすことはないと思うので、このときは、優婆寺というお寺はなかったのかもしれません。また「道もない方向」と書いてあるので今の場所とも違うようです。お堂がお寺になったのは意外に近い時代かもしれません。

もう一つ気になるのは、真澄は「姥の像」「優婆の像」と書いて、奪衣婆とは書いていないことです。

なぜだろうと思い始めるときりがないのでこの辺で。

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正津川という地名の由来

優婆寺は正津川にあります。正津川というのは土地の住所であり、地区を流れる川の名前でもあります。

「下北半嶋史」は、蝦夷語を語源とする説と、川魚の棲まぬ処から精進川という説との2つの説を紹介しています。

「大畑町誌」は、正津川の地名由来を、古名が「妾塚」(しょうづか)であったという説と、魚が棲息しない川なので精進川だったという説の2つの説を紹介しています。

妾塚というのは、だれか女性の墓があったということでしょうか。東北太平記という古い本に出ているそうです。この「しょうづか」と「しょうづがわ」は発音が近いです。

正津川は恐山から流れる川ですが、宇曽利湖から出たところでは三途川と呼ばれています。また、三途の川の別名には、三瀬(みつせ)川や葬頭河(そうずか)、渡り川があるそうです。この「そうずか」と「しょうづがわ」も発音が近いです。

整理すると、
1.蝦夷語
2.精進川(しょうじんがわ)
3.妾塚(しょうづか)
4.葬頭河(そうずか)
の4つの地名由来があるようです。

個人的には、妾塚がしっくりくるのですがどうでしょうか。精進川はいかにも取って付けたようで違うような気がします。


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