平川市碇ヶ関に鎮座する大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に参拝してきました。大山祇命は山の神様です。
国道7号から地下道で奥羽線の向こう側に行きます。朝霧橋南側という信号機の少し北側のところです。
地下道を抜けてすぐの小高い場所に神社が見えます。
大山祇神社について、碇ヶ関村史に次のように記載されています。
「碇ヶ関集落の西の高地にあり、旧村社。祭神は大山祇命・少彦名神・素戔嗚命。元和七年(一六二一)の勧請とされる。また、「神社微細社司由緒調書書上帳」に、薬師堂とあり、天正十四年(一五八六)再建とみえ、確かなことは不明である。」
ここでは、確かなことは不明であるとしつつ、「薬師堂」という名称をあげています。しかし、同村史には「山神」「山神堂」「山神宮」の名称が多く出てきます。
まず、天保九年(一八三八)の「御巡検使御下向付諸事心得並御触書」です。幕府巡検使一行が碇ヶ関に宿泊した際の、弘前町奉行から碇ヶ関町奉行に宛てた注意書きです。
「一、碇ヶ関御出発の時は、碇ヶ関町の山神堂下までお見送りする。庄屋並び町年寄の者たちは無腰に袴、羽織で六人が出る。」(碇ヶ関村史92p)
藩の公文書に「山神堂」が出ています。
また、同村史に掲載されている「碇ヶ関御絵図(津軽家蔵)」には「山神」と記載されています。(65p)
同村史には、安政年間(一八五四〜六十)の「御棟札調帳」も引用されていますが、ここにも「山神宮」とあり、薬師堂については「宮地ばかりにて堂宮なし」と記載されています。(169p)
以上によると、かつて薬師堂があったものの、ある時期から山神が祀られて「山神堂」または「山神宮」だったことになります。大山祇神社になったのは明治の神仏分離令以降でしょう。
下の写真のように、当神社の社額は大山祇ではなく「山神宮」です。明治の神仏分離令によって名称が変更になった寺社が旧名称をそのまま掲げているのは珍しいことです。
さて、上に引用した「碇ヶ関町の山神堂下までお見送りする」です。お見送りは村はずれの街道沿いでするものです。山神堂下がお見送り場所ということは当時はこの辺りが村はずれだったのでしょう。
そして、新編弘前市史の通史編3近世2に次のように書いてあります。参勤交代を説明している部分です。
「碇ヶ関村へ到着。この村には制札場・枡形・山神堂(さんしんどう)があり、その下に一里塚がみえる。」
山神堂の下に羽州街道の「一里塚」があったのです。
その一里塚ですが、ここではないかと思う場所があります。国道7号に面して大きな「戦役紀年碑」がたっている場所です。
横の階段をのぼると奥羽線越しに大山祇神社が見えます。
なので、まさに「山神堂の下」です。地形からしても一里塚ではないかと思うのですが、確証がありません。
話を戻します。本殿の右奥に龍神大神の祠がありました。水の神様です。
祠の内部です。井戸がありました。
碇ヶ関は水が豊富なところで、町のあちこちにかけ流しの用水がみられます。
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