弘前市立第三中学校の前に「野砲兵第八聯隊之跡」と刻まれた石碑がたっています。
戦後、第三中学校とその奥にある柴田女子高校(現柴田学園高校)は、野砲兵第八連隊の敷地に移転し、兵舎を校舎として活用しました。柴田学園高校の敷地には現在も当時の建物が一部残っているそうです。
この石碑は、昭和43年11月3日、明治百年・弘前市制施行80周年のときに建立されました。
野砲兵第八連隊は、明治29年に編成された連隊で陸軍第八師団に属していました。同連隊は昭和12年に満洲に派遣され、戦況の悪化に対応して昭和19年7月フィリピン・ルソン島に派遣されましたが、激戦の結果ほぼ全滅状態で終戦を迎えました。
石碑の面に「隊歌」が刻まれています。
西にそひゆる
津軽富士
東に高き
八甲田
朝な夕なに
あおきつつ
健児八百
ここにあり
石碑の後は第三中学校の裏門ですが、連隊の門だと言われています。
この辺りにある多くの学校は、旧陸軍の敷地に建っています。上述したように第三中学校と柴田学園高校は野砲兵第八連隊の敷地と兵舎でした。弘前大学は旧制弘前高校と第八師団司令部の跡地です。弘前商業高校(現県立弘前実業高校)は陸軍の被服倉庫や歩兵第三一連隊の跡地です。文京小学校は被服倉庫の跡地です。松原小学校は騎兵第八連隊の跡地です。実に広大な地域が第八師団の管理地でした。この他に弘前城三の丸には陸軍兵器支廠がありました。郊外には射撃場や練兵場がありました。他にも多くの軍関係施設がありました。弘前はまさに軍都だったのです。
近くの中野児童遊園・中野緑地は桜がきれいなところですが、これも陸軍施設の桜だと言われています。
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