弘前城の本丸に「鷹揚園記碑」と刻んだ石碑がたっています。鷹揚園は「おうようえん」と読みます。
この石碑には次のようないわれがあります。
1908年(明治41年)9月23日、皇太子殿下(後の大正天皇陛下)が東北行啓の途中、弘前に立ち寄られました。
そのとき、弘前城本丸でご休憩された殿下は本丸からの眺望をお誉めになり、知事に公園の面積や名称などをご下問されました。知事は面積については即答したものの名称についてはまだ決まっていない旨お答え申し上げたところ、殿下からそれでは命名する旨のお言葉がありました。まもなく、10月30日付で「鷹揚園」と名称が伝えられ、11月6日に県庁を通して弘前市に命名書が下賜されました。
皇太子殿下から命名いただくことは大変名誉なことなので、弘前市では名称を刻んだ石碑をたてるつもりでしたがなかなか実現しなかったところに、大正4年になって大正天皇が陸軍特別大演習で弘前に行幸されることが決まったという連絡が入りました。弘前城にも立ち寄るという日程があったことから、せっかく命名していただいたのに命名を記念する碑がないのは恐れ多いと考え、急遽準備にかかり数か月で建立にこぎつけました。
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この石碑が建立されたのは大正天皇行幸直前の大正4年10月でしたが、碑文には本来建立すべきだった「明治四十二年春壬一月」の日付が刻まれています。慌てて造ったことは隠したかったのでしょう。
鷹揚園記碑という題字は弘前藩最後の藩主であった津軽承昭伯爵、撰文は二松学舎の創立者でもある三島毅文学博士、書は書家の日下部鳴鶴、石工は宮城県の後藤元作によるものです。本丸の津軽為信銅像の右隣に設置が完了したのは大正天皇が弘前に到着する1週間前でした。なお、日下部鳴鶴は当時の書の第一人者で多くの作品を残しましたが、一般には日本酒「月桂冠」のラベルの字を書いた方として著名です。
鷹揚園と刻んだ石碑は追手門前と中央高校口にも設置されています。
ところが、地元で鷹揚園と呼ぶ人は少なく、弘前城あるいは弘前公園と呼ぶのが一般的です。
追手門を入ったところに設置されている市の注意看板には「弘前公園」、公園内に多数設置されている案内板には「史跡弘前城」と書かれています。
追手門前に「史跡弘前城跡」の石柱がたっています。
たまたま工事看板がたっていましたが、工事名には「史跡弘前城跡」と「鷹揚公園」が使われていました。
古い石碑に鷹揚園と表示され、弘前市都市公園条例に「鷹揚園」とあるので、正式名称は鷹揚園なのでしょう。「弘前城跡」も史跡名ですから正式なものです。一番多く使われている「弘前公園」は鷹揚園命名以前からの名称で、命名後も併用して使われてきたもののようです。
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