岩木山神社は、岩木山の南東麓、弘前市百沢に鎮座する神社です。古い歴史をもち、本殿、奥門、瑞垣、拝殿、中門、楼門は重要文化財に指定されています。また、旧暦8月1日に行われる岩木山の山頂にある奥宮を目指す登拝の祭礼は重要無形民俗文化財に指定されています。
江戸時代は、岩木山三所権現を祀る下居宮(おりいのみや)であり、別当は百沢寺(ひゃくたくじ)でした。明治初年の神仏分離で百沢寺は別当を免じられて廃寺となり、下居宮は岩木山神社となりました。
このとき、本堂、楼門などは岩木山神社の拝殿などに転用され、仏像は長勝寺と大鰐町の専称院に移されました。
江戸時代の紀行家菅江真澄も詣でています。
菅江真澄 津軽の奥(四)より
「百沢寺に入って小法師の案内にしたがい、境内をめぐった。山門はたいそう高く、十二面観音、五百羅漢が安置されている。これは寛永五年のころ、国の守信枚とかがつくらせなさり、女人が山門に入るのを禁じられたという。いらかの立ち並んでいるさまは、都に例えて言えば、山かげの地ではあるが、おおよそ大徳寺に似ている。神主が先にたって、下居の宮(岩木山神社)の玉すだれに近く出て、幣をとって祓い清めた。この祠は岩木三所権現をあがめまつっているが、岩木の岳に三つの峰がある。左の峰に観世音をまつる寺があり、岩鬼山観音院西方寺といって、もと十腰内にあった。左の峰は薬師仏をあがめて鳥海山景光院永平寺といい、もと松代村にあった。なか峰は弥陀仏をまつり、岩木山光明院百沢寺という。これが元尊法印のひらかれた寺である。この寺も、もと十腰内にあったが、今はここに移されている。昔は十腰内まで行き、その村から岩木岳に登るのを主な登山道としていた。」
「そのむかし建立したという三つあった寺のうち、景光院は絶えてしまい、観音院は南部にうつされた。この百沢寺もたくさんの僧坊は天正十七年火災にかかって、あともなくなったが、いまの国の守の祖先、右京大夫為信が、本堂、下居の宮を再興されて、たいそう立派につくられた。また寺につらなって、宝積坊、西福坊、山本坊、福寿坊、南泉坊、円林坊、東林坊、万福坊、徳蔵坊、法光坊などがあった。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政八年(一七九六年)三月一日の日記より引用
「天正十七年火災にかかって」というのは、天正17年(1589)の岩木山噴火による被害のことです。