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おぶちの牧
江戸時代の紀行家菅江真澄の「おぶちの牧」に出てくる通過地や滞在地をだどります。寛政5年(1793)の旅です。
田名部を出て太平洋岸に至り、南下して、白糠、泊、尾駁に行きます。野辺地に行こうと思いますが道が雪に閉ざされているので、来たときと同じ道をたどって田名部に戻ることにします。
前の日記「牧の朝霧」では友人に別れをいうために大畑や易国間に行っていることから、当初は田名部に戻らずに野辺地を経て津軽か南部路の旅を続けるつもりだったと思われます。
文中の日付は旧暦です。なお、日記が始まる寛政5年10月16日は新暦では11月19日にあたります。日記が終わる12月29日は1月30日にあたります。
以下、東洋文庫版菅江真澄遊覧記3「おぶちの牧」からの引用です。
寛政5年10月16日
大畑に滞在しています。北村伝七というものから蝦夷地でのアイヌの反乱の話しを聞きます。
10月21日
大畑の田中の家を馬で出立します。正津川、外山、樺山、女館の法呂(ほろ)権現(法呂神社)を経て田名部に着き、新相の宿屋に泊まります。
10月24日
田名部に滞在しています。子供が集まってカラスを呼んで米やおこしを投げて食べさせています。
10月25日
田名部に滞在しています。七日に海が荒れて秋味(鮭)を積んだたくさんの舟が遭難した話しを聞きます。
10月28日
田名部に滞在しています。松前からの手紙で二百余の船が遭難し、三百余人が亡くなったことを知ります。
11月27日
田名部を出立します。「野辺地に出るには、横浜という浦を伝って」行くべきであるが「尾駮の牧」をみたいので遠回りする旨のことを書いています。
赤坂、八船豊受媛の社、石神、ぼんばなたひ、妙見の石の祠、田屋、館八幡、青平(上田屋)、熊野の社、天魔神という祠、よこながれ、子持ながれを経て、砂子又に入って宿泊します。そこは「この春に一夜、やどをとった」家だと書いています。
家の老婆が言います「親たちは健在か、親がいるなら、はやくその国にもどりなさい。わたしも子をたくさん持っているが、近い山にはいって木こりややまごに従事して生活しているので、寒い日にはどうであろうかと、朝夕しきりに会いたく思う。あなたの親もさぞや同じ気持ちであろう。」真澄は「この老婆のいさめに恥じ、答えるすべもなかった」と書いています。
11月28日
砂子又に滞在しています。館八幡、円流寺を訪れます。雪がますますはげしくどうしたものかとためらっていると、この家の老人が「きょう出発すれば、からだがしみ凍ってしまうであろう。今宵もたき火にあたりながら菅筵を敷いて寝て、明けたならば早くお出かけなさい」と親切に言ってくれます。
11月29日
砂子又を出立して、小峠、大峠、前峠、手代川(たしろかわ)村、左京沼(左京沼)、荒沼を経て小田野沢につきます。小井辺(こいへ)の渡しから老部(おいっぺ)に入って宿泊します。
11月30日
夜が明けるころ、牛にのって老部を出立します。
白糠につき、ほんたの神(八幡)、赤石明神、物見崎(物見崎)、屏風岩を過ぎて、次左衛門ころばし、岩石おとしという難所を越えます。そうめんが滝、しらすなのはま、ぼっとあげ、中山、弁財天を経て泊(とまり)に着きます。白糠と泊の間は難所がいくつもあり「目もくらみ足もうく」思いをします。
泊の浦の長、種市の家に宿を借ります。
12月1日
泊に滞在しています。東海山大乗寺の哲誉上人に会います。御所大神宮というささやかな祠を訪れます。
12月2日
馬に乗って泊を出立します。雪あられが降るので皮ごろも(熊の毛皮)を借りて着ます。滝の神垣、蒼前の社と進みます。ひどい吹雪で命を失いそうな思いをして出戸(でと)に入り宿泊します。
12月4日
吹雪がはげしく出発できずに出戸に滞在しています。火にあたりながら主人と話して、この辺りの牧や昔の名馬のことを聞きます。
12月5日
出戸村を牛にのって出立します。途中、岡のようなところに枯草の色がわずかにあらわれているところを、それが尾駮の牧の古跡だと人が教えてくれます。「さあ、そこにわけいってみよう」と言いますが、雪が深いと断られます。
大きな湖(尾駮沼)があります。水の上に「まで」という小屋が並んでいます。尾駮村に着きます。湖の岸にある木村某の家に宿を借ります。
12月6日
尾駮に滞在しています。昨日からの雨が降り続いています。家の老人が「また雨まじりの雪が振ってくるだろう、吹雪にもなるであろう、むさくるしくても、もう一夜とどまったらよい」と言ってくれたので泊まります。囲炉裏ばたで老人から尾駮の名の由来を聞きます。
12月7日
野辺地に行く道があるけれども今は雪が深くて行けないと聞いて、田名部に戻ることにします。牛に乗って尾駮を出立します。
出戸で牛をかえて進みます。滝の明神の前近くで、道が凍っていて牛が何度も転びます。泊につきます。
12月8日
泊に滞在しています。雪で出発できずにいます。
12月12日
今日は出発したいと思いますが、途中の難所がさらに危険になっているので、小舟で白糠へ向かいます。舟からの景色を楽しみます。
白糠を馬で出立します。大雪であまり進めず老部で宿泊します。
12月13日
朝早く老部を出立して、小田野沢を経て砂子又について泊まります。
12月14日
風邪ぎみでだるいので昼ころに砂子又を出立します。青平で休憩し、田屋を経て、日が暮れてから田名部に着きます。
12月18日
田名部に滞在しています。「きょうようやく起きだした」と書いています。だいぶ体調が悪かったようです。
人が訪ねてきて「このような寒い冬空に、どうして知らぬ旅路に出られましょう。大雪の道を苦しんでたどるよりは、去年から住みなれたこの町で年を越し、二月三月になって雪が消えるころを待って、浦も山も霞につつまれる気候のよいときに出かけてこそ、旅をするおもしろさがあるというものだ。安心していなさい。もっと静かで落ち着いたところがあります。さあ、ちがう宿にいきましょう。」と言ってくれます。「このような情深い人もいたものかと、涙が落ちるほどありがたかった。」と書いています。菊池道幸という商家の離れで「あかるい窓と暖かい埋火のある部屋」に移ります。
12月23日
田名部に滞在しています。炊事屋に大きな鱈がかけてあります。「あへだら」と言って年越しのごちそうです。
12月26日
田名部に滞在しています。今日は「としの市」で人が繁く往来してます。
12月29日
田名部に滞在しています。小の月なので暦は今宵で終わりですが、この国(南部藩)の習俗で師走が小の月であれば一月一日の夜を除夜と決めているのでまだ年が暮れません。
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