千曳(ちびき)神社は、青森県内有数の古社です。藩政時代には藩主の参詣があり幕府の巡検使も代参を送った社格の高い神社でした。
住所は七戸町菩提木56。ナビを頼りに行きました。十和田市方面からくると、七戸を過ぎ日本中央の碑公園を過ぎてまもなくの後平バス停付近から左折して北の方に進みます。
江戸時代の紀行家菅江真澄が千曳明神を訪れたのは天明8年(1788)7月5日でした。前日、相坂村に宿泊した菅江は七戸宿を経て坪村、そして石文村に入って「石文」の事を尋ねましたが、情報を得ることができないまま千曳明神に向かいました。
「夕方になるころ、千曳明神の鎮座される尾山というところにわけいってみると、千曳大明神の鳥居の額は、盛岡の東沢文真という人の筆になるとかいう。神殿にすすんで幣を奉った。この社の下に、千曳の石は幾重ものあらごもに包んで深く埋め、神としてまつり奉っている。その千曳の石が、壺の碑(いしぶみ)であろうと人が言っていた。宮城郡浮島村の境にたっている石碑は多賀城の碑で、この坪村か石文村に真の碑があるのであろう。そうだけれども碑のかたちを実際に見なかったので、何をもってみやげとして、友人に語ったらよかろうか。」
東洋文庫版菅江真澄遊覧記3より引用
鳥居横に建てられている「由緒」には次のように書かれています。
「本社は大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞(かすみ)に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。
江戸時代には、幕府巡検使の参拝所であり、南部領では順路第一の地であった。それ故に巡検使通行の節、見苦しきため、取り毀し仮社としていたが、明和二年(一七六五)再興した。
古くから「日本中央」と刻んだ「壷の石文」を建てたという伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。」
壷の石文の伝説
菅江真澄も気にかけている石文について、幕府巡見使の随員だった古川古松軒が、菅江が訪れた直後の天明8年(1788)8月26日に千曳神社を訪れ、東遊雑記に次のように記述しています。
「神代の時に石の札を建て、其石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追い返せし事になるに、悪鬼の来りて其の石を土中へ深く隠せしを、神々達の集り探し出し給ひし所こそ、石文村にて、其石を建し所は坪村に有りしを、坂上田村麻呂来たり給ひ、鬼を残りなく殺し給ふ故に、此石は無用とて此所を七尺掘て埋め給ひ、其上に社を建立なされし事にて、其石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引しを以て千引大明神と申なり」
大石を埋めてその上に神社を建てたという伝説です。また、その石を「人数千人」で引いたので千引大明神というと、千曳の由来を記しています。
明治9年、明治天皇が東北地方を巡幸した際、政府の随員がこの石文を探し、神社の地下を発掘するなどしましたが発見できませんでした。
昭和24年(1949)、千曳集落と石文集落の間の赤川支流の湿地帯から大石が発見され、これが壷の碑ではないかと話題になりましたが真偽は確定していません。この石碑は、日本中央の碑歴史公園にある日本中央の碑保存館に保存されています。
境内の写真
千曳の石は、日本中央の碑とは別物だという伝説もあります。
以下、川合勇太郎著「ふるさとの伝説」からの抜粋です。
千曳の神様が坪村のつぼ子の美しさにひかれて男の姿になって夜な夜なつぼ子の元に通っていました。ある日男は「私は実は石の精なのです。明日、村人が私を地中に埋めるそうです。もうお前と会えなくなります。どうせならお前の手で引かれて埋められたい」と別れを告げました。
次の日、村人が石を引きましたがどうしても動きません。占うとつぼ子に引かせよと言うお告げが出たので、つぼ子に引かせたところ易々と動いたので明神様の下に埋めました。
この伝説には坂上田村麻呂は登場しません。
もう一つ。
昔、ある公卿が天子様のお怒りにふれて陸奥の坪村に流されました。都にいる妻を懐かしく思い、庭にあった大きな石に歌をしたためました。ふしぎなことに都にいる妻の庭にある大石にその歌が浮かび上がっていました。妻は怪しみながらもその石に返歌を書きつけました。すると坪村の大石にその返歌が浮かび上がったのです。
まるで電子メールです。