恐山 むつ市

恐山は恐山菩提寺というお寺の境内ですが、地元では「死ねばお山に行く」と言われる信仰の霊地でもあります。また、豊富な温泉がわく湯治場としても長く親しまれてきました。

恐山は下北半島のほぼ中央部に位置しています。下北半島を代表する観光地のひとつです。

さて、恐山という地名がおどろおどろしいイメージに一役かっているように思います。しかし、元は「宇曽利」なのです。昔、下北半島の辺りを宇曽利(うそり)郷とよんだ時期があって、今でも宇曽利という地名があります。この「うそり」が転訛して「おそれ」になり、いつか「恐」の字を充てるようになったと考えられています。「恐ろしい」の「恐れ」ではありません。

恐山へはむつ市の中心部から約14キロ、車で30分ほどで行くことができます。山道を上り下りして急に視界が開けると宇曽利湖(うそりこ)です。正面の山は外輪山の一つ、大尽山(おおづくしやま)です。

宇曽利湖

宇曽利山湖(うそりやまこ)が正式名称のようですが地元では宇曽利湖という人が多いようです。

湖畔までくると太鼓橋が目に入ります。

太鼓橋

この太鼓橋は三途川(正津川=しょうづがわ)にかかる橋です。

三途川から湖に向かって木杭が打ってあります。この杭は、昔、湖の水を利用して水力発電所を作ったときの取水口の跡だと聞いたことがあります。

取水口跡

江戸時代の紀行家の菅江真澄は田名部(むつ市)滞在中に何度も恐山に登っています。三途川の手前にある鬼石付近のことを次のように書いています。

菅江真澄 牧の冬枯より
「大きな湖のほとりにでて、遠方やや近いあたりを見わたすと、言いようもないおもしろさである。湖にさし出ている雪のつもった岡辺の風情も格別であるが、鬼石とかいう、ごつごつと重なりあって険しい岩の立つあたりから流れでる湯の色は、山藍を流したようで、その匂いはたえがたいほどだったので、たちどまらずに、丸木をならべた小橋をわたろうと・・・・。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政四年(一七九二年)十月三十の日記より引用

菅江真澄がきたときは太鼓橋ではなかったようです。今でもこの辺りは硫黄の匂いがたちこめています。

太鼓橋を過ぎて間もなく、大きな駐車場があります。駐車場には売店や食堂があります。

駐車場

この先は有料です。総門の前で入山料を払います。500円です。

総門

総門をくぐると山門が見えます。左手の赤い屋根の建物は本堂です。

境内

山門の右手の建物は社務所です。

社務所

山門です。

山門

山門の仁王様です。

仁王像

向かって左、吽(うん)形の仁王様。

仁王像

総門をくるぐと地蔵殿がみえます。左右の小さな小屋は温泉の浴舎です。入山料を払った人は無料で入ることができます。タオルは駐車場にある売店で売っています。

参道

下の写真は、参道左手の温泉です。冷抜(ひえ)の湯と古滝(こたき)の湯です。

菅江真澄 牧の冬枯より
「冷えの湯、ふる滝の湯、やくしの湯、山かげに行くと花染の湯といって、うすいくちなし色にわき出ており、また、しん湯という湯の元も奥山にあるとか。湯浴みをする人のために仮小屋をたくさん建てて並べ、便所も細い流れの上に造ってあるので、ここかしこに、ささやかではあるが家はたくさんならんでいた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政四年(一七九二年)十月三十日の日記より引用

浴場

菅江真澄 奥の浦うらより
「ふる滝の湯、ひえの湯、めの湯、花染の湯、しんたきの湯といって、湯桁が五ヵ所あり、病人がそれぞれに集まっている。湯浴みをするには、女は紺の湯まきをして大ぜいならび、頭に手拭をかけ、大きな手桶で湯をさかんにすくい、これを かぶる といって、百度も千度も頭にうちかけるので、たいそう長い髪のかたちはくずれてぬれ乱れ、あるいはそれを櫛けずるのに、みな目をふさいでいる有様は、ところもところとて、十戒の仏画を見るように、まるで地獄のふるまいをしていた。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政五年(一七九三年)五月二十六日の日記より引用

参道右手の温泉は、薬師(やくし)の湯です。菅江真澄は「めの湯」と書いています。昔から眼病に効くといわれてきた温泉です。

浴場

地蔵殿です。本尊は延命地蔵菩薩。

地蔵殿

地蔵殿。

地蔵殿

地蔵殿の左手から地獄極楽の世界に入ります。

地獄極楽

地蔵殿に向かって右手に宿坊の「吉祥閣」があります。恐山には湯治や法事のために泊りがけでくる人が多かったので、昔から宿坊がありました。

宿坊

だいぶ前、小学校の頃にここの宿坊に泊まったことがあります。もちろん今のような立派な建物ではなく、古くてすきま風が吹き込む建物でした。誰かの法事だったようですが覚えていません。夕食には焼き魚などが出て「精進料理じゃないんだね」という大人の声を記憶しています(今は正式な精進料理だと聞いています。)。その日、大人たちは夜遅くまで酒を飲んで大騒ぎしていました。おかげで私は、恐山と言えば明るい温泉場というイメージで思い出すようになりました。

吉祥閣の裏手に回ると花染(はなぞめ)の湯です。

浴場

「大正の頃はこの鉱泉で餅を作り、花染餅として恐山名物の一つであった」
森勇男著 霊場恐山と下北の民俗 より

花染の湯の近くに立ち入り禁止区域があり、ガスが噴き出ています。

ガス噴出孔

ここはまだ活動している火山です。宇曽利湖はカルデラ湖で、恐山の境内は火口なのです。

終わりにイタコについて書いておきます。

恐山にはイタコがいて死者の霊を降ろしてくれる、というイメージで語られることがあります。

確かにイタコがいますが、いつもいるわけではありません。また、イタコが恐山でみられるようになったのはそれほど遠い昔ではないと言われています。

菅江真澄は何度も恐山に登り、うち1回は、地蔵会の時期も含めて1ヶ月月近くの長逗留をしています。しかし、イタコについては書いていません。どうも江戸時代にはイタコはいなかったようです。

イタコが恐山で見られるようになったのは、明治の終わりころ、日露戦争のあとだといわれています。

恐山のイタコといっても、恐山に住んでいるわけではないので、普段見かけることはほぼありません。恐山大祭(7月20日から24日)と恐山秋詣り(10月の体育の日が最終日となる3日間=土日月)の時に津軽地方など各地から集まってきます。

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