鶴ヶ崎順法寺城は、むつ市城ヶ沢にある中世の城跡です。
宝治年間(1247~1249)に安東盛親によって築かれ、正平年間(1346~1370)に南朝の良尹親王が居城にしたと伝えられています。
場所は、旧城ヶ沢小学校の付近です。
下北地方は、鎌倉時代のころには安東氏の支配下にあったようですが、南北朝のころに、八戸の根城を本拠地とする根城南部氏の支配下に入っていました。根城南部から代官(目代)が派遣されていたようです。
その後、南朝に組していた根城南部氏は、後醍醐天皇の子、護良(もりなが、もりよし)親王の子である良尹(ながただ)親王を保護し、順法寺城に住まわせました。
良尹親王は北部王とよばれました。
康正2年(1456)、北部王家5代目の新田義純が、家臣の蛎崎蔵人信純に殺害され、北部王家は断絶しました。
根城南部氏は、新たな支配者になった蛎崎信純を認めず、征討軍を出して蛎崎城を落としました。蛎崎蔵人の乱といいます。
→蛎崎城址
この辺りのことは、江戸時代初期に成立した「東北太平記」という本に書いてあるそうですが、私は、東北太平記を引用した笹沢魯洋の「蛎崎戦争五題」を参考にしました。
東北太平記には、蛎崎蔵人がモンゴルの兵を含めて4万の兵を率いて戦ったなど、信じがたい展開が書いてあるようです。ために、物語としては面白いけれども歴史資料としての価値が少ないとみなされてしまうのは仕方ありません。
ただし、物語の骨子である、下北地方の支配者が、安東氏から南部氏になり、途中で土地の豪族である蛎崎氏が反乱をおこすが、鎮圧されて、再び南部氏の領地になったという流れは史実だと思われます。
順法寺城は、永禄年間(1558~1570)に、九州の菊池一族の菊池正義が南部氏を頼って移り住んだとされています。その子正興の代に菊池氏は田名部館に移り、順法寺城は破却されたようです。
田名部館→代官山公園
順法寺城趾の案内板が設置されています。
近くの海岸です、城地の一部は海の下になっているとのことです。
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