外が浜風
江戸時代の紀行家菅江真澄の「外が浜風」に出てくる通過地や滞在地をだどります。天明5年(1785)の旅です。
菅江真澄は大間越から津軽に入り、深浦、弘前を経て青森に入ります。北海道への渡海を断念し、南下して矢立峠を越え秋田に戻ります。
文中の日付は旧暦です。なお、日記が始まる天明5年8月3日は新暦では9月6日にあたります。青森は過ごしやすい秋の季節です。
以下、東洋文庫版菅江真澄遊覧記1「外が浜風」からの引用です。
天明5年8月3日
秋田から日本海沿いに津軽に入ります。国境いにある堺明神、木蓮子坂、おしどり石、仏崎を経て大間越に入り、津梅川を渡り、黒崎に着いて宿泊します。
8月4日
黒崎を出立します。神明の社、社の手前に的岩があります。森山(ガンガラ穴)で小舟を頼んで遊びます。房田、浜中、岩崎、中山を経て、深浦に入って宿泊します。
「中山というところを通って峠にかかり」と書いています。椿山、舮作(へなし)、横磯という海岸沿いの道を通らず、岩崎からまっすぐに山路に入り中山峠を越えて深浦に入ったのです。
8月5日
深浦を出立します。広戸、追良瀬を経て、とどろきで宿泊します。
8月6日
驫木を出立します。鳥井崎、風合瀬(かそせ)、晴山、田の沢、西の小浜、金井が沢、関村、柳田、桜沢、桜明神を経て、赤石川を渡ろうとしますが増水して渡れず、川岸の牛島で宿泊します。
8月7日
赤石川の水が引かないので金井が沢まで引き返します。小野某の家に宿泊します。
8月8日
牛島から赤石川を渡ります。赤石村を経て鰺ヶ沢に入り宿泊します。
8月9日
鰺ヶ沢に滞在しています。
8月10日
鰺ヶ沢を出立します。浮田、卯の木、床前、森田、山田、相野、木造を経て岩木川を舟渡しで渡り、五所川原に入り宿泊します。
鰺ヶ沢から五所川原まで大間越街道を歩いています、現在の国道101号、JR五能線に沿った道筋です。
8月11日
五所川原を出立します。亀田村、鶴田村、菖蒲川村、大相(大性)村、小幡村、板屋の木村、宝量宮(海童神社)、朶村、松の木村を経て藤崎に着きます。真蓮寺に宿泊します。
五所川原から藤崎まで岩木川沿いに歩いています。現在の国道339号に沿った道筋です。
8月12日
藤崎を出立します。岩木川を渡り、百田村、津軽野(つかの)、大久保、撫牛(なでうし=撫牛子ないじょうし)、堅田、和徳を経て広崎(弘前)に入り、笹森町の諏訪家を訪れ、宿泊します。関連記事:羽州街道 弘前宿 羽州街道 弘前市代官町から藤崎町鹿島神社まで(この記事は逆コースです。)
藤崎から弘前までは現在の国道7号に沿った道筋です。
8月13日
間山祐真の家を訪れます。
8月14日
高屋繁樹の家を訪れます。
8月15日
弘前に滞在しています。
8月16日
黒石方面に出かけます。高崎、境堰村、八幡崎を経て猿賀村に着いて深砂大明神(猿賀神社)に詣でます。
黒石に入り斎藤行索を訪ねます。
8月17日
野添、戸川(十川)、二ツ家、みしま、高館、竹鼻、本郷、吉内、中野を経て浪岡で宿泊します。
現在の浪岡北中野黒石線、青森県道146号に沿った道筋です。
8月18日
浪岡を出立します。志左万、浦石、登久左志(徳才子)、杉の沢、山里を経て津軽坂を越えます。油川、新城、岡町、大浜を経て青森に入ります。関連記事:羽州街道 鶴ヶ坂駅から津軽新城駅まで(この記事は津軽坂を下ってから新城まで)
津軽坂は鶴ヶ坂です。概ね、今の国道7号に沿って北上しています。津軽坂を越えたあとの道筋が「油川、新城、岡町、大浜」となっていますが「新城、岡町、大浜」だと思います。津軽の奥(二)も「新城、岡町、大浜」のルートです。
8月19日
うとうまえのかけはし(善知鳥崎)に向かいますが引き返します。浜田、荒川、大豆坂を通って浪岡に戻ります。
帰りは津軽坂ではなく大豆坂を越えて浪岡に戻っています。
この日、青森の世情を見て蝦夷地行を諦めたようです。このあと、弘前に寄らずに秋田領に戻ります。
8月20日
浪岡を出立します。尾上、小和森、柏木町を経て薬師堂村で宿泊します。
8月21日
薬師堂村を出立します。乳井村(乳井神社)、仁保井、八幡館、鯖石、宿河原、剣岬(つるぎがはな)、大鰐橋、大鰐の出湯、蔵館の出湯、大日堂(大円寺)、本村、長峰、九十九森、唐牛を経て碇が関(羽州街道 碇ヶ関宿)に入り宿泊します。
知り合いがいる弘前に寄らずにどんどん南下しています。
8月22日
碇ヶ関を出ます(羽州街道 津軽湯の沢駅から道の駅いかりがせきまで(この記事は逆コースです))。
関所を越えます。道の左右に白糸滝、登滝、無音滝、日暮し滝、折橋の番所、藩境の大杉、矢立峠の九曲りを下りおわって出羽(秋田)に入ります。
再び青森に入るのは、3年後の天明8年(1788)です。
外が浜風をたどるー岩手の山
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