青森県にもゆかりがある菅江真澄の常設展示をみに秋田県立博物館に行ってきました。秋田県立博物館は奥羽線追分駅から徒歩約20分です。
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県立博物館の本館に菅江真澄史料センターがあります。菅江真澄は江戸時代後期の旅行家でした。東北と北海道をはじめ多くの地方を歩いて土地の人々と親しく交流して、多くの日記や随筆などを残しました。
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館内には菅江真澄の足跡をたどるパネルと、旅日記の原本などが展示されていました。また、私がいつも参考にさせていただいている東洋文庫版菅江真澄遊覧記の編訳者である内田武志先生がベッドに仰臥して執筆している写真に心を打たれました。先生は長く血友病を患い妹さんの助力で研究を続けたのだそうです。
館内の見学を終えて旧奈良家住宅に向かいました。旧奈良家住宅は秋田県立博物館の別館です。途中、神社と白い標柱が見えたので立ち寄りました。
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秋田県内にはこうした「菅江真澄の道」標柱が405箇所にたっているそうです。その一つです。
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博物館本館から男潟の岸沿いに行くと別館旧奈良家住宅があります。本館と別館の間は歩いて15分くらいです。
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旧奈良家住宅です。左の玄関がお客様用、中奥の玄関が勝手口、右の玄関が日常用いた玄関とのことです。見学受付は右の玄関にありました。
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菅江真澄 軒の山吹より
「小泉という村の長(おさ)奈良某のもとに、茂木知利がきていると手紙で知らせてきた。近いところなので、すぐでかけた。雌沼(女潟)雄沼(男潟)というふたつの大池がある。この水辺をつたって、奈良氏の家を訪れた。(中略)近所にある奈良氏の親族の家は湖水に臨んだ屋上の眺めがたいそうよいというので、みなといっしょにでかけた。(中略)灯をともすころ、また本宅にもどってきて(中略)夜更けまで語りあい、この夜は多くの人たちとここに泊まって・・・」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記5 文化八年(一八八一年)五月十二日の日記より引用
遊覧記には茂木氏らと会った「奈良氏の家(本宅)」と、近所で湖水に臨んだ「奈良氏の親族の家」が登場します。この旧奈良家住宅が「本宅」で、「眺めのよい親族の家」は今はなくなっているのでしょう。
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菅江真澄はこの写真の右奥の部屋に滞在したと言われています。「菅江真澄翁伝(村井良八)」を引用した「菅江真澄遊覧記五のあとがき(内田武志)」には、「喜右衛門は真澄のために、奥の六畳間を書斎として提供していた」とあります。
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本館と別館に下のような看板がたっていました。「軒の山吹」に記録されている絵図をもとに、軒に山吹を刺す風習を再現した行事が旧奈良家住宅を中心に行われているようです。
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菅江真澄 軒の山吹より
「夕方から餅をつき、これを丸めて、枯葦の長い串にたくさんさし貫き、またヤマブキ(本文は金で始まる難しい漢字)を折ってこれといっしょに、母屋をはじめ、建物という建物は、柴屋・米倉・厠の軒までも、びっしりと葺くのは、見なれない光景でもあり、珍しかった。由来を尋ねると、この金足の沢の村では、むかしからこのように行われているということだった。」
東洋文庫版 菅江真澄遊覧記5 文化八年(一八八一年)三月二十四日の日記より引用
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