南部の南部氏

三戸南部

八戸市に長者山新羅神社という神社があります。前九年の役、後三年の役のころの武将、八幡太郎源義家の弟、新羅三郎源義光を祀っている神社です。

この源義光が甲斐の国、今の山梨県の辺りに所領を持ち、その子孫は引き続いて甲斐の国を領していました。その人たちを甲斐源氏と呼んでいます。武田信玄も甲斐源氏の一族です。

幾代か経て、甲斐源氏の一族の一人である南部光行が、藤原泰衡討伐に功があったとして源頼朝から奥州糠部五郡をもらいました。

糠部五郡は、三戸、鹿角、北、九戸、岩手と言われていますが、確かなことは不明です。

南部光行は建久2年(1191)に八戸に到着し、馬淵川上流の平良ヶ崎(南部町立南部中学校旧校舎付近)に館を築きました。

その後、光行自身は鎌倉に戻りましたが、子孫が聖寿寺館を築き、聖寿寺館が天文8年(1539)に火災で焼失したあとに三戸城に移りました。以降、三戸南部と呼ばれます。

聖寿寺館

三戸城

南部氏の一族は今の岩手県北部、青森県の津軽半島、下北半島にも勢力を拡大し、最盛期には青森県全域を支配していました。

戦国時代末期に、津軽地方で大浦為信(後の津軽為信)が反乱を起こし、ちょうどそのとき足元では九戸一族が不穏な動きを見せていたため、有効に反撃することができず津軽地方を失ってしまいました。

豊臣政権に対して大浦為信の不当を訴えましたが、すでに為信に対する領地安堵が決定していたため、代りに閉伊郡、和賀郡、稗貫郡を追加されました。

領地の南方への拡大に伴い、南部氏は三戸から盛岡に拠点を移し、以後盛岡南部氏として明治まで存続しました。

根城南部

源光行の三男実長が甲斐国波木井に所領を持って波木井を名乗っていました。

南北朝時代の初期に、波木井の家を継いだ南部師行が南朝の北畠顕家の配下として今の八戸に入り、根城に城を築きました。この系統を根城南部と呼びます。

根城

根城南部は八戸周辺の支配を固め、更に北の方に勢力を広げ今の下北・上北地方も支配していました。

江戸時代に入り、盛岡南部の指示で根城南部は根城を退居して遠野に移りました。これを遠野藩といいます。

根城南部が移ったあとに八戸を支配した八戸藩は、根城南部と直接の関係はありません。根城は廃城になり、八戸藩の城は現在の三八城公園の場所に築かれました。

八戸城

三戸と根城の関係

今の青森県南部地方には多くの南部一族がいましたが、三戸南部が本家という立場でした。根城南部は分家という立場ではありましたが、同等の勢力をもっていたようです。

南北朝時代には全国が二派に分かれて戦いました。このとき三戸南部は北朝方であり、根城南部は南朝方でした。

しかしながら、三戸と根城が直接戦闘するようなことは無かったといいます。

豊臣秀吉の小田原攻めの際には、根城南部は、三戸南部の参陣に協力しています。

しかし、領地安堵を得たのは本家の三戸南部だったため、根城南部は事実上三戸南部の配下になってしまいました。


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